「レイコの青春」 13~15
専門職としての「保母」さんたちの育成も
この頃からようやく始まりました。
最初は、講習を受けて資格を取得しましたが、
やがて専門学校が作られ、短大や大学でも
専門課程が学べるようになります。
こうした保育の創世記ともいえる時代に生まれてきたのが、
あの有名な「ポストの数ほど、保育園を。」
というスローガンです。
やがて、第2段階ともいえる
新しい試練の時代が保育の世界にもやってきます。
それが戦後の復興から、安定した経済の成長期に入った、
昭和30年代後半の高度経済成長の波です。
この高度経済成長は、著しい人口の大移動を生み出しました。
民族の大移動と呼ばれたもので、大都市部や工場地帯へ、
過度に人口が密集をします。
同時に第一次産業(農林漁業)では、深刻な労働力の不足が発生をして、
地方や濃漁村では、過疎が急速に進行をします。
都市部では過密ぶりによって、追いつかない生活の基盤整備とともに、
新しい社会問題が発生をしてそれらが次々と、
新しい社会のひずみを生みだします。
昭和40年代の出生数は、
1966年(昭和41 年)の「ひのえうま」の年を除き、
さらに増加をし続けます。
1967年(昭和42年)になると、日本の総人口が初めて、
1 億人を越えました。
このころになって、急激な人口増加にどのように対応するかが
社会的・政策的にも急がれるようになります。
その後に、我が国の高度経済成長は、その最盛期を迎えます。
この経済の急成長は、女性労働者に対する需要と
職域を大幅に拡大させることとなり、
既婚女性たちの就業者数も一気に急増させることになりました。
それらの動きに伴なって、保育に欠ける乳幼児数が急増をします。
こうした要保育児童数の増加に対応するために、
昭和40年に、厚生省が「保育所保育指針」を新たに制定をしました。
昭和42年度から、昭和45年度までの年次計画が検討されて、
保育所の増設と整備のためにあてることが図られています。
さらに、昭和45年度から昭和50年度までを、
社会福祉施設整備計画の一環として「保育所緊急整備5カ年計画」
が策定され、施設整備のさらなる促進が図られました。
しかし、昭和48年の石油ショックを境に、
高度経済成長が終息すると、
日本経済も必然的に低成長の時代がはじまります。
長引く経済の停滞のために、国や地方自治体の財政事情が
次々と悪化をします。
こうした時代背景の中で
昭和50年代に入ると、「福祉や教育の見直し」等の議論が始まり
予算削減へ向けて、一気に弱者を切り捨てる方向へと舵が切られます。
いわゆる福祉や教育予算を切り捨てる、
冬の時代が始まります。
作品名:「レイコの青春」 13~15 作家名:落合順平