もうひとりの母
二人の男が、「臼井」という表札のかかった門をくぐり、小さな庭を歩いていく。二人とも背が高く体つきはがっしりとしており、一人は黒いスーツに、もう一人は灰色のスーツに身を包んでいる。
家の前までくると、黒スーツの初老の男がインターホンを鳴らした。少し待ったが、反応はない。もう一度鳴らす。もう一度。もう一度。
十回鳴らしても反応がなかった。二人の男はなにやら話をして、うなずきあうと、灰色スーツの若い男だけがその場を離れ、家の裏へと向かった。
「あら」
裏口から、エプロンにサンダル姿の、四十歳くらいの女が出てくるところだった。脇に買い物袋を抱えている。
「どちらさま?」と女は尋ねた。
「突然お訪ねして申し訳ございません、臼井さん」灰色スーツは頭を下げた。「わたくし、笹山高校に勤務している者で、俣川と申します。本日は二年生の生活指導を担当されている山岸先生といっしょに、武君とお話をさせていただこうとうかがった次第です」
「ああ……そうだったんですか。学校の方。武のためにわざわざ、申し訳ないです。でも、お二人も来てくださらなくても」
「申し遅れました、わたくしはスクールカウンセラーでして。武君は、その……あまり人と話すのは好きではないでしょうから。相手が先生となるとさらに身構えてしまうのではないかと」
「それで、カウンセラーさんの出番というわけですか」
「ええ。そういうことですから、ぜひお母様にもご一緒していただきたいのですが。武君もその方が落ち着くでしょうし」
「そうねえ……わざわざ、来てくださったんだものねえ。わかりました、タイムセールはあきらめますわ」
「ありがとうございます。すいません、ほんとうに、お忙しいところ」
数分後、三人は机を囲んで茶をすすっていた。
「すいませんねえ、麦茶しかなくて。お紅茶はさっき使いきってしまったんですよ」
「いえいえ、十分ですよ。それで――」と黒スーツは言った。「武君はいつから学校を?」
「担任の先生から、お聞きになってないんですか?」
「いや、ははあ……申し訳ない、教師失格ですな」
「いえいえ、全クラスの生徒ひとりひとりに気を配れなんて言うつもりはありませんから。先生も大変でしょう」
「いやはや、臼井さんはご理解があって助かりますよ。今日びモンスターペアレントといって――」
「それで」と灰色スーツが遮った。「武君は、いつから?」
「正確には覚えていないんですが、かれこれ三か月にはなるかしら……」
「まったく部屋から出てこないのですか?」
「そうですね。食事や入浴は、私が眠っているうちに済ませているみたい」
「長いこと顔を見ておられない?」
「ええ。私も基本的に毎日仕事で、食事は武の分もコンビニ弁当で済ませて、あとはお風呂に入って眠るだけの生活ですから、正直、武に声をかける暇はないんです。親失格ですよね」
「そんなことはありませんよ。旦那様の分も補わなければならないんですから、むしろご立派じゃないですか」
「そう言っていただけると、救われますわ」
間。
「ところで臼井さん」切りだしたのは、黒スーツだった。「ご存じですかな、近頃ここいらで起こっている、連続強盗殺人事件のことを」
「ああ……テレビでよくやってますよねえ。物騒だわ」
「犯行の手口についてはご存じで?」
「家に押し入って、刃物で……だったかしら」
「ええ」
「怖いわねえ」
「被害者に共通点があることを?」
「いえ……」
「これまで被害にあった家庭はすべて、母子家庭なんですよ」
「まあ」
「ですから臼井さんにも忠告を……と」
「ありがとうございます、気をつけますわ。でもよくご存じなのねえ。まるで刑事さんみたい」
「警察の方々とも協力しておるのですよ。いつ生徒が被害に遭うかわかりませんからな。事実、近隣の高校で既に被害者が出ています」
「そうなんですか。それにしても、不思議ねえ。なぜ母子家庭なのかしら。犯人にはなにか、事情があるのかしら」
「どうでしょうなあ。単純に父親がいない分犯行が楽だから、ということも考えられますが」
「なるほど」
「卑劣なやり口ですよ」
「そうですねえ。一刻もはやく、捕まってほしいわ」
「まったく」
「あの……」灰色スーツが声を上げた。「お母様、そろそろ」
「あ、はい。武ですね。部屋は二階ですわ」
三人は席を立ち、歩きはじめた。
「つかぬことをうかがいますが」
「はい」
「お母様は、武君のことを、どのようにお考えで?」
「どのように、とは?」
「例えば、表には出さないが不満があったり、将来への不安を感じていたり、ということは」
「そうですねえ……不満というようなことは、特にないですね。たしかに死ぬほど忙しい毎日ですけど、長いこと子宝には恵まれなかった私に神様がようやく授けて下さった、たったひとりの息子ですから。自分の人生をかけてでも、守ってあげたい、育ててあげたい、私にできることならなんでもしてあげたい、と、いまはそれだけで、武になにかしてほしいとは思わないんです。頼ってもらえるのが嬉しいというか。まだ夫の遺してくれたお金もありますし。もちろん、先生方のお話で武の気が変われば、それに越したことはないですけど。……やっぱり、私は親失格なのかしらねえ」
「そんなことは……ありませんよ」
三人はある部屋の前で立ち止まった。閉ざされたドアの向こうは、静まりかえっている。
男たちはうなずきあって、「それでは、臼井さん――」と振り返った。
「ええ。――あっ、いけない。お鍋の火を止めるの、忘れてたわ。ごめんなさい、少し待ってていただけます?」
女は慌ただしく階段を駆け下りていった。
二人の男は顔を合わせて、肩をすくめた。
「どうにも抜けた人ですね」
「ああ。だが、いい母親だな。あんな親だったら、俺もグレずに済んだろうに」
「……あまり、見せたくはありませんね」
「そうだな。俺もそう思ってたよ」
そう言うと、黒スーツの男はドアをノックした。
「臼井武。そこにいるな?」
返事はない。
「警察だ。いますぐここを開けなさい」
返事はない。
黒スーツはノブを回したが、やはり鍵がかかっている。
「開けないなら無理にでも入るぞ」
返事はなかった。黒スーツは言葉どおりにドアを蹴破った。
部屋は真っ暗だった。よどんだ臭気が流れ出てくる。
二人の男は部屋に入ると、隅に膝を抱えてうずくまっている少年を見つけた。黒スーツは彼に近づき、尋ねた。
「臼井武だな?」
少年は反応しなかった。黒スーツは少年の肩を揺さぶり、顎に手をやって強引に顔を上げさせた。少年の顔は涙と鼻水にまみれていた。
「連続殺人事件の被疑者として、お前を連行する」
そこではじめて、少年は表情を変えた。眉をひそめ、弱々しい声でこう言った。
「なん……て? 殺人……? おれが……?」
「目撃証言が出ている。一週間前の午後三時ごろ、被害者宅を訪れていただろう。指紋もいたるところから検出されている」
「あ……あれは、回覧板を――」
「山岸さん!」部屋を調べていた灰色スーツが遮った。「これを……!」
何事か、と黒スーツは駆けつけ、それを見ると深くため息をついた。
押入れから、女の死体が上体を覗かせていた。
家の前までくると、黒スーツの初老の男がインターホンを鳴らした。少し待ったが、反応はない。もう一度鳴らす。もう一度。もう一度。
十回鳴らしても反応がなかった。二人の男はなにやら話をして、うなずきあうと、灰色スーツの若い男だけがその場を離れ、家の裏へと向かった。
「あら」
裏口から、エプロンにサンダル姿の、四十歳くらいの女が出てくるところだった。脇に買い物袋を抱えている。
「どちらさま?」と女は尋ねた。
「突然お訪ねして申し訳ございません、臼井さん」灰色スーツは頭を下げた。「わたくし、笹山高校に勤務している者で、俣川と申します。本日は二年生の生活指導を担当されている山岸先生といっしょに、武君とお話をさせていただこうとうかがった次第です」
「ああ……そうだったんですか。学校の方。武のためにわざわざ、申し訳ないです。でも、お二人も来てくださらなくても」
「申し遅れました、わたくしはスクールカウンセラーでして。武君は、その……あまり人と話すのは好きではないでしょうから。相手が先生となるとさらに身構えてしまうのではないかと」
「それで、カウンセラーさんの出番というわけですか」
「ええ。そういうことですから、ぜひお母様にもご一緒していただきたいのですが。武君もその方が落ち着くでしょうし」
「そうねえ……わざわざ、来てくださったんだものねえ。わかりました、タイムセールはあきらめますわ」
「ありがとうございます。すいません、ほんとうに、お忙しいところ」
数分後、三人は机を囲んで茶をすすっていた。
「すいませんねえ、麦茶しかなくて。お紅茶はさっき使いきってしまったんですよ」
「いえいえ、十分ですよ。それで――」と黒スーツは言った。「武君はいつから学校を?」
「担任の先生から、お聞きになってないんですか?」
「いや、ははあ……申し訳ない、教師失格ですな」
「いえいえ、全クラスの生徒ひとりひとりに気を配れなんて言うつもりはありませんから。先生も大変でしょう」
「いやはや、臼井さんはご理解があって助かりますよ。今日びモンスターペアレントといって――」
「それで」と灰色スーツが遮った。「武君は、いつから?」
「正確には覚えていないんですが、かれこれ三か月にはなるかしら……」
「まったく部屋から出てこないのですか?」
「そうですね。食事や入浴は、私が眠っているうちに済ませているみたい」
「長いこと顔を見ておられない?」
「ええ。私も基本的に毎日仕事で、食事は武の分もコンビニ弁当で済ませて、あとはお風呂に入って眠るだけの生活ですから、正直、武に声をかける暇はないんです。親失格ですよね」
「そんなことはありませんよ。旦那様の分も補わなければならないんですから、むしろご立派じゃないですか」
「そう言っていただけると、救われますわ」
間。
「ところで臼井さん」切りだしたのは、黒スーツだった。「ご存じですかな、近頃ここいらで起こっている、連続強盗殺人事件のことを」
「ああ……テレビでよくやってますよねえ。物騒だわ」
「犯行の手口についてはご存じで?」
「家に押し入って、刃物で……だったかしら」
「ええ」
「怖いわねえ」
「被害者に共通点があることを?」
「いえ……」
「これまで被害にあった家庭はすべて、母子家庭なんですよ」
「まあ」
「ですから臼井さんにも忠告を……と」
「ありがとうございます、気をつけますわ。でもよくご存じなのねえ。まるで刑事さんみたい」
「警察の方々とも協力しておるのですよ。いつ生徒が被害に遭うかわかりませんからな。事実、近隣の高校で既に被害者が出ています」
「そうなんですか。それにしても、不思議ねえ。なぜ母子家庭なのかしら。犯人にはなにか、事情があるのかしら」
「どうでしょうなあ。単純に父親がいない分犯行が楽だから、ということも考えられますが」
「なるほど」
「卑劣なやり口ですよ」
「そうですねえ。一刻もはやく、捕まってほしいわ」
「まったく」
「あの……」灰色スーツが声を上げた。「お母様、そろそろ」
「あ、はい。武ですね。部屋は二階ですわ」
三人は席を立ち、歩きはじめた。
「つかぬことをうかがいますが」
「はい」
「お母様は、武君のことを、どのようにお考えで?」
「どのように、とは?」
「例えば、表には出さないが不満があったり、将来への不安を感じていたり、ということは」
「そうですねえ……不満というようなことは、特にないですね。たしかに死ぬほど忙しい毎日ですけど、長いこと子宝には恵まれなかった私に神様がようやく授けて下さった、たったひとりの息子ですから。自分の人生をかけてでも、守ってあげたい、育ててあげたい、私にできることならなんでもしてあげたい、と、いまはそれだけで、武になにかしてほしいとは思わないんです。頼ってもらえるのが嬉しいというか。まだ夫の遺してくれたお金もありますし。もちろん、先生方のお話で武の気が変われば、それに越したことはないですけど。……やっぱり、私は親失格なのかしらねえ」
「そんなことは……ありませんよ」
三人はある部屋の前で立ち止まった。閉ざされたドアの向こうは、静まりかえっている。
男たちはうなずきあって、「それでは、臼井さん――」と振り返った。
「ええ。――あっ、いけない。お鍋の火を止めるの、忘れてたわ。ごめんなさい、少し待ってていただけます?」
女は慌ただしく階段を駆け下りていった。
二人の男は顔を合わせて、肩をすくめた。
「どうにも抜けた人ですね」
「ああ。だが、いい母親だな。あんな親だったら、俺もグレずに済んだろうに」
「……あまり、見せたくはありませんね」
「そうだな。俺もそう思ってたよ」
そう言うと、黒スーツの男はドアをノックした。
「臼井武。そこにいるな?」
返事はない。
「警察だ。いますぐここを開けなさい」
返事はない。
黒スーツはノブを回したが、やはり鍵がかかっている。
「開けないなら無理にでも入るぞ」
返事はなかった。黒スーツは言葉どおりにドアを蹴破った。
部屋は真っ暗だった。よどんだ臭気が流れ出てくる。
二人の男は部屋に入ると、隅に膝を抱えてうずくまっている少年を見つけた。黒スーツは彼に近づき、尋ねた。
「臼井武だな?」
少年は反応しなかった。黒スーツは少年の肩を揺さぶり、顎に手をやって強引に顔を上げさせた。少年の顔は涙と鼻水にまみれていた。
「連続殺人事件の被疑者として、お前を連行する」
そこではじめて、少年は表情を変えた。眉をひそめ、弱々しい声でこう言った。
「なん……て? 殺人……? おれが……?」
「目撃証言が出ている。一週間前の午後三時ごろ、被害者宅を訪れていただろう。指紋もいたるところから検出されている」
「あ……あれは、回覧板を――」
「山岸さん!」部屋を調べていた灰色スーツが遮った。「これを……!」
何事か、と黒スーツは駆けつけ、それを見ると深くため息をついた。
押入れから、女の死体が上体を覗かせていた。