夏の恋
『夏の恋』
タカシとリエが出会ったのは夏の初めであった。
ある夜、居酒屋で話し込んでいるうちに遅くなってしまった。タカシは当然ホテルに泊まるつもりだったが、リエが突然「帰る」と言った。
タカシは仕方なしに「送る」と言った。リエは拒絶しなかった。二人は人通りの少ない鉄道の線路に沿う小道を歩いた。既に午前一時を回っていて、列車は動いていない。とても静かで、ただ明るい月明かりが煌々と地上を照らしていた。
公園に来たとき、タカシはもう少し話をしたいと言ってベンチに腰をおろした。リエもそれに従った。ずっと黙ったままだった。ふと、夜空を見上げると、無数の星が宝石のように漆黒の闇に散りばめられていた。
「君のことが好きだ」
「だめよ」
かなり強い口調で言った。
「僕は君にふさわしくない?」
リエは首をふり、「好きになったらいけないのよ」
「どうして?」
リエは黙ったままだった。
「黙っていたら、何も分からないよ。……嫌いなのか?」
リエは少し悲しそうな声で、「そうじゃないの。私には好きな人がいたの」と黙った。
「今でもその人が好きなのか?」
ずっとリエはそばにいて、自分以外の男がいるとは思わなかったので、タカシの心は少なからず揺れた。
「分からないけど。ただ、ずっと、その人が好きだったの」
「ずっと? どのくらい」
「言えないわ。だって、あなたに嘘をついていたもの。本当はあなたのことを好きでもないのに付き合ったりして……」とリエは少し涙ぐんだ。まるで幼子のように。そんなリエにタカシはとても愛しさを感じた。
風が少し出てきた。どこからか花びらが風に舞ってゆらゆらと落下してきた。
「どんなことでも傷つかないから、話してくれないか?」
「傷つかないなんて……優しいのね」
タカシは優しいのではないと思った。優しいふりしかできなかったのである。リエはじっとタカシを見ていた。
「あなたはやっぱり大人ね。どんなことでも冷静に聞くことができるのね」
「そんなことはない。顔色を変えないだけ。いや、変えることができなくなったのかもしれない」
「どうして?」
「どうしてだろ? ……自分でも良く分からないけど、その方が社会で生きるのに便利だろ? 喜怒哀楽を素直にあらわしたら疲れる」
リエの顔を窺った。
「やっぱり、あなたは大人ね」とリエはくすっと笑った」
「でも、心とは別だよ」
「心は別?」
「少なくともそう思っている。少年の時のような感性を失っていないと思っている」
いや、正確にいえば、そうだと信じているだろう。心はずっと昔と変わらない、衰えたということを考えたくなかった。
はなびらが散っている。リエが手を差し延べた。掌の中に花びらが一枚落ちた。
「まるで、星の園から落ちてきたみたい……」とリエは呟いた。
タカシはリエを見た。すると、リエは笑みを微かに浮かべた。しかし、何も会話はしなかった。
沈黙を破るのは、時折、遠くの方から聞こえてくる車の走る音。それに寂しそうな犬の遠吠えだけだ。
「話が途中で終わってしまったわ。……先を聞きたい?」
子猫のような愛くるしい眼をタカシに向けた。タカシはどう答えたらいいのか分からなかった。
「君の自由だよ」
「興味はないの?」
「いや、とても興味があるさ」とぎこちない笑みを浮かべた。しかし、リエはタカシを見ていなかった。その時、既に自分の世界に入っていたに違いない。リエ、自然、おそらく自分自身が気づかないうちに自分の殻に閉じこもってしまう特徴があった。あるいは遠くを見ていたのかもしれない。まるで星の世界に吸い込まれたかのように。
「そう、ずっと好きだったの」
リエは涙ぐんだ。
「互いにデザイナーとして一流なることを夢見て、二年も一緒に勉強してきたの」
リエは沈黙した。タカシもリエの意外な一面を知ってしばらく沈黙した。
「辛い話なら言わなくともいいよ」
リエは首をふった。
「そうじゃないのよ、……ひどいのよ。新しい彼女ができて、それで私のことが邪魔になって、田舎に帰って結婚をしろと言われたの。心の中にぽっかりと穴が開いたの。そんなとき、あなたに出会った……」
「寂しかっただけ?」
リエはうなずいた。
「悔しいけど、彼女には才能があって、可愛らしくて」
リエはうつむいた。リエは悔しさが伝わってきた。しかし、慰める言葉が見つからなかった。
「私は何度も夢の中で彼を殺したの。分かったでしょ?」
「何が?」
「あなたが愛するに値しない女なのよ」
リエの身体が小刻みに震えるのが分かった。
リエがその男とどのように生きてきたかをタカシは想像したが、想像もできないような、何かしらどろどろした情念に満ちた世界を生きてきたのではないかという結論に達した。幼げな顔の下に自分の知らない顔を隠している。だからといってリエへの思いは何も変わらなかった。
リエは振り向いた。
「私のことは忘れて。あなたのことは、きっと好きになれないと思う」
突然のことでタカシはびっくりした。
「訳を聞かせてくれないか?」
タカシの言葉はふるえていた。
「誤解していたの。あなたのことを」
「どんなふうに?」
「怒らないで、聞いて。あなたは恋人ではなく、父さんのように慕っていたことに気づいたの。だから愛することはできないの。……ごめんなさい」
リエは顔をそむけた。
「本当か?」
リエはゆっくりとうなずいた。タカシの心は砕けた。
リエは「さよなら」と小声で言って消えた。タカシも「さようなら」と応えたが、リエは振り向かなかった。
月は明るく地上を照らしていた。もはや、通り過ぎる酔っぱらいもなく、犬の遠吠えさえなかった。
タカシはずっとリエを忘れようとした。しかし、そう思えば思うほど辛く、かえって思いは募るばかりであった。昼も夜も、何度、受話器に手をかけ、そして止めたことか。夢にも見た。悲しい夢ばかりだった。
三週間が過ぎ、リエへの思いがようやく過去のものになろうとした矢先、思いがけずリエから電話がきた。
「ずっとあなたのことが心配だった」
「大丈夫だよ、……でも、正直言って、別れようと言われた時、心は砕けてしまったけど」
「ごめんなさい」
まるで、幼子が悪さを咎められて謝るのと同じような小声だった。
「良いんだ。リエは何も悪くはない。でも、あの話は本当?」
リエはくすっと笑っているのが分かった。
「嘘なの。……ごめんなさい。でも、あなたのことが恐かったの?」
リエの鋭い感性にタカシは驚いた。リエを愛していた。しかし、その愛はある種の不純さがあった。その魅力的な肉体に眼がくらんでいた。
タカシは返す言葉がなかった。
「でも、あなたの顔を月明かりで見て、とても心が傷ついていることが分かったわ。でも何も言えなくなったの」
自分では少しも表情を露にしたつもりはなかったのに、リエに心の奥まで見透かされ、タカシは驚いた。
「でもね、あなたは大人でしょ? こんな電話をしたら失礼よね?」
タカシは慌てて否定した。
「そう、ならいいんだけど……」
リエが深い呼吸をするのが分かった。リエは緊張を解くために、半ば無意識のうちに、それをやることがある。
タカシとリエが出会ったのは夏の初めであった。
ある夜、居酒屋で話し込んでいるうちに遅くなってしまった。タカシは当然ホテルに泊まるつもりだったが、リエが突然「帰る」と言った。
タカシは仕方なしに「送る」と言った。リエは拒絶しなかった。二人は人通りの少ない鉄道の線路に沿う小道を歩いた。既に午前一時を回っていて、列車は動いていない。とても静かで、ただ明るい月明かりが煌々と地上を照らしていた。
公園に来たとき、タカシはもう少し話をしたいと言ってベンチに腰をおろした。リエもそれに従った。ずっと黙ったままだった。ふと、夜空を見上げると、無数の星が宝石のように漆黒の闇に散りばめられていた。
「君のことが好きだ」
「だめよ」
かなり強い口調で言った。
「僕は君にふさわしくない?」
リエは首をふり、「好きになったらいけないのよ」
「どうして?」
リエは黙ったままだった。
「黙っていたら、何も分からないよ。……嫌いなのか?」
リエは少し悲しそうな声で、「そうじゃないの。私には好きな人がいたの」と黙った。
「今でもその人が好きなのか?」
ずっとリエはそばにいて、自分以外の男がいるとは思わなかったので、タカシの心は少なからず揺れた。
「分からないけど。ただ、ずっと、その人が好きだったの」
「ずっと? どのくらい」
「言えないわ。だって、あなたに嘘をついていたもの。本当はあなたのことを好きでもないのに付き合ったりして……」とリエは少し涙ぐんだ。まるで幼子のように。そんなリエにタカシはとても愛しさを感じた。
風が少し出てきた。どこからか花びらが風に舞ってゆらゆらと落下してきた。
「どんなことでも傷つかないから、話してくれないか?」
「傷つかないなんて……優しいのね」
タカシは優しいのではないと思った。優しいふりしかできなかったのである。リエはじっとタカシを見ていた。
「あなたはやっぱり大人ね。どんなことでも冷静に聞くことができるのね」
「そんなことはない。顔色を変えないだけ。いや、変えることができなくなったのかもしれない」
「どうして?」
「どうしてだろ? ……自分でも良く分からないけど、その方が社会で生きるのに便利だろ? 喜怒哀楽を素直にあらわしたら疲れる」
リエの顔を窺った。
「やっぱり、あなたは大人ね」とリエはくすっと笑った」
「でも、心とは別だよ」
「心は別?」
「少なくともそう思っている。少年の時のような感性を失っていないと思っている」
いや、正確にいえば、そうだと信じているだろう。心はずっと昔と変わらない、衰えたということを考えたくなかった。
はなびらが散っている。リエが手を差し延べた。掌の中に花びらが一枚落ちた。
「まるで、星の園から落ちてきたみたい……」とリエは呟いた。
タカシはリエを見た。すると、リエは笑みを微かに浮かべた。しかし、何も会話はしなかった。
沈黙を破るのは、時折、遠くの方から聞こえてくる車の走る音。それに寂しそうな犬の遠吠えだけだ。
「話が途中で終わってしまったわ。……先を聞きたい?」
子猫のような愛くるしい眼をタカシに向けた。タカシはどう答えたらいいのか分からなかった。
「君の自由だよ」
「興味はないの?」
「いや、とても興味があるさ」とぎこちない笑みを浮かべた。しかし、リエはタカシを見ていなかった。その時、既に自分の世界に入っていたに違いない。リエ、自然、おそらく自分自身が気づかないうちに自分の殻に閉じこもってしまう特徴があった。あるいは遠くを見ていたのかもしれない。まるで星の世界に吸い込まれたかのように。
「そう、ずっと好きだったの」
リエは涙ぐんだ。
「互いにデザイナーとして一流なることを夢見て、二年も一緒に勉強してきたの」
リエは沈黙した。タカシもリエの意外な一面を知ってしばらく沈黙した。
「辛い話なら言わなくともいいよ」
リエは首をふった。
「そうじゃないのよ、……ひどいのよ。新しい彼女ができて、それで私のことが邪魔になって、田舎に帰って結婚をしろと言われたの。心の中にぽっかりと穴が開いたの。そんなとき、あなたに出会った……」
「寂しかっただけ?」
リエはうなずいた。
「悔しいけど、彼女には才能があって、可愛らしくて」
リエはうつむいた。リエは悔しさが伝わってきた。しかし、慰める言葉が見つからなかった。
「私は何度も夢の中で彼を殺したの。分かったでしょ?」
「何が?」
「あなたが愛するに値しない女なのよ」
リエの身体が小刻みに震えるのが分かった。
リエがその男とどのように生きてきたかをタカシは想像したが、想像もできないような、何かしらどろどろした情念に満ちた世界を生きてきたのではないかという結論に達した。幼げな顔の下に自分の知らない顔を隠している。だからといってリエへの思いは何も変わらなかった。
リエは振り向いた。
「私のことは忘れて。あなたのことは、きっと好きになれないと思う」
突然のことでタカシはびっくりした。
「訳を聞かせてくれないか?」
タカシの言葉はふるえていた。
「誤解していたの。あなたのことを」
「どんなふうに?」
「怒らないで、聞いて。あなたは恋人ではなく、父さんのように慕っていたことに気づいたの。だから愛することはできないの。……ごめんなさい」
リエは顔をそむけた。
「本当か?」
リエはゆっくりとうなずいた。タカシの心は砕けた。
リエは「さよなら」と小声で言って消えた。タカシも「さようなら」と応えたが、リエは振り向かなかった。
月は明るく地上を照らしていた。もはや、通り過ぎる酔っぱらいもなく、犬の遠吠えさえなかった。
タカシはずっとリエを忘れようとした。しかし、そう思えば思うほど辛く、かえって思いは募るばかりであった。昼も夜も、何度、受話器に手をかけ、そして止めたことか。夢にも見た。悲しい夢ばかりだった。
三週間が過ぎ、リエへの思いがようやく過去のものになろうとした矢先、思いがけずリエから電話がきた。
「ずっとあなたのことが心配だった」
「大丈夫だよ、……でも、正直言って、別れようと言われた時、心は砕けてしまったけど」
「ごめんなさい」
まるで、幼子が悪さを咎められて謝るのと同じような小声だった。
「良いんだ。リエは何も悪くはない。でも、あの話は本当?」
リエはくすっと笑っているのが分かった。
「嘘なの。……ごめんなさい。でも、あなたのことが恐かったの?」
リエの鋭い感性にタカシは驚いた。リエを愛していた。しかし、その愛はある種の不純さがあった。その魅力的な肉体に眼がくらんでいた。
タカシは返す言葉がなかった。
「でも、あなたの顔を月明かりで見て、とても心が傷ついていることが分かったわ。でも何も言えなくなったの」
自分では少しも表情を露にしたつもりはなかったのに、リエに心の奥まで見透かされ、タカシは驚いた。
「でもね、あなたは大人でしょ? こんな電話をしたら失礼よね?」
タカシは慌てて否定した。
「そう、ならいいんだけど……」
リエが深い呼吸をするのが分かった。リエは緊張を解くために、半ば無意識のうちに、それをやることがある。