白粉花(おしろいばな)~旗本嘉門の恋~
冬―枯色
色目
または、冬を表現する色目としては
〝氷(こおり)重(がさね)〟がある。
白粉花(おしろいばな)
花ことば―あなたを想う、三月の花
【壱】
江戸の町も正月を過ぎ、松ノ内が終わると、華やいだ雰囲気も消え、常と変わらぬ佇まいを見せ始める。それでも、空高く上がった角凧が悠然と泳いでいるのを見上げ、嘉門は眼を細めた。
寒走った冬の空は薄蒼く、あまり温かみはなかったが、どこかで子どもがこの凧を一生懸命に上げているのかと想像すると、自ずと微笑ましい想いになる。
しばらく見るともなしに空を眺めていた嘉門はうーんと伸びをして、再び歩き出す。ただでさえ上背のある彼がそうやって伸び上がると、余計に並外れた長身が目立ってしまう。
ふいにやわらかな風が頬を撫でて通り過ぎ、嘉門はこのまま家に帰るのが億劫になってしまった。
―帰れば帰ったで、また、母上のあの小言を耳にせねばならぬからな。
胸の内で独りごちて、つい苦笑する。
嘉門の母お藤の方は現在は落飾して祥月院と名乗っている。嘉門の父石澤琢磨(たくま)兵衛(ひようえ)は直参の旗本で五百石の扶持を幕府より賜っていたが、二年前、病を得て亡くなった。
嘉門は弱冠十五歳で亡き父の跡目を相続し、石澤家の当主となり、今日に至っている。
嘉門の両親は、嘉門がまだ物心つくかつかぬ頃から、仲が悪かった。この夫婦の仲が冷淡で険悪なのは屋敷内では誰も知らぬ者がいないという有り様で、言うなれば、それだけ仲の悪さが人眼についていたということでもある。
その主な原因としては、ひとえに母の態度によるところが多かっただろう。母は公方さまとも縁戚関係にある親藩大名松平越中守親嘉(ちかよし)の一人娘であった。
親嘉は頭脳明晰で人柄も清廉潔白、時の将軍家のお憶えもめでたく、いずれは老中にまで出世するのではと一部では早くからひそかに囁かれていた人物であった。老中は幕府の要職である。母はその姫君として幼時からあまたの奉公人にかしずかれて大切に育てられた。
母にしてみれば、自分は長じて己れの身分立場に見合うだけの大名の許へ嫁ぎ、その奥方となるのだと信じて疑っておらず、また、そういった望みがあながち無理なものだとはいえないほど、母は恵まれた、やんごとない生まれの姫であった。
しかし、母のその願いはあっさりと覆されることになる。母が六歳になった年、父親嘉が許婚者を決めた。
当時、親が勝手に縁談を決めるは格別珍しくはない。母の場合も父―つまり嘉門にとっては祖父がその盟友である石澤守尚(もりひさ)の嫡男との婚約を取り決めたのである。守尚の嫡男兵衛は幼名を惟(ただ)治郎(じろう)と名乗っており、母よりは三つ上の九歳になったばかりの少年であった。
守尚と親嘉は無二の親友であり、その親交は身分を越えたものであった。若い砌、町の道場で知り合った二人は忽ちにして意気投合し、互いに切磋琢磨して腕を磨いてきたのだ。事実、守尚も親嘉も二人共に師範代を務めるほどの卓越した剣の腕を持ち、本気で打ち合えば、なかなか勝敗がつかなかった。
むろん、町の道場に身分を隠して時折ひそかに通っていたその頃、親嘉もまだ若く、気心の知れた友である守尚でさえ、この親友が後に幕閣の中枢において重きをなす老中首座にまで昇りつめようとは想像だにしていなかった。
二人は道場で汗を流した後は、小さな縄暖簾で酒を酌み交わし、様々な話に打ち興じた。むろん、大藩の藩主である親嘉はお忍びであある。それでも、二人の話は尽きることがなかった。政から始まって、好みの女の話まで、若者らしい好奇心で飽くことなく弁舌をふるったものだ。
そんな二人であってみれば、互いの息子と娘をゆくゆくは娶せようという話になったとしても、いささかの不思議もない。
もっとも、父親同士はそれで良かったのだろうが―、当の子どもたちにとっては、それが不幸な結婚の始まりになったのだから、結果的には良かったのかどうか。
父は新婚早々から側室を持ち、その女は一男一女をあげている。異父弟は嘉門よりふた月遅れの同い年であった。が、幸か不幸か、その弟は乳呑み児の時分に夭折し、側室も弟の後を追うように儚く亡くなった。
腹違いの弟とその生母が亡くなった時、屋敷内では悪しき噂がまことしやかに流れた。
あろうことか、正室であるお藤の方が側室と異父弟をひそかに呪詛していた―というものだ。その頃、嘉門は当然ながら、まだ赤児であり、当時のことは一切与り知らない。我が母親ながら、否、母であるからこそ、そんなこともありかねないと思ってしまうのは、あまりにも親不孝なことだろうか。
実際のところ、母は気性の烈しいひとだった。いや、その名のとおり藤の花のごとく麗しい花のかんばせを持ちながら、権高で松平家の姫であるという誇りを支えに生きているる。父が母を疎んじたのも、その気性のせいであったといわれている。父を格下の一旗本と端から侮り、けして良人として認めようとしなかったその心根が父には耐えきれなかったのだ。
その癖、父が側室を持てば、嫉妬のあまり憤り、父よりもむしろその愛を奪った側室を恨んだ。同じ男として見れば、嘉門は父の方に同情もしたくなるというものだ。嘉門はお藤の方を母として大切に思ってはいるが、一女性として母を見た時、こんな女だけはご免だ―と思わずにはいられないのである。
父が亡くなり、母にとっては一粒種である嘉門が家督を継いでからというもの、母の関心は今度は良人から息子に移った。元々、良人に愛されぬ鬱憤を、息子を溺愛することで晴らしていたような母である。その溺愛ぶりはますます深まり、正直、この頃では嘉門でさえ辟易とする始末。
殊に顔を見れば、
―一日も早うご正室をお持ちになり、この母に孫の顔を見せて安心させて下さりませ。
と矢のような催促である。
嘉門にしてみれば、良い加減にして欲しいと叫びたいところを、ぐっと我慢しているのだ。
嘉門は年が明けて、十七になった。部屋の奥に座って学問に明け暮れるよりは、町の道場で剣を握っていた方が性に合う若者だ。十七歳という年齢は当時としては、けして結婚するのに早くはなく、むしろ適齢期ともいえる。が、血気盛んな年頃の彼にとっては、妻を娶るということもどこか他人事のような遠い世界の出来事のように思えてならなかった。
それに―、幼時から両親の仲の悪さを見せつけられて育った嘉門には、結婚が人生最大の不幸のように見えても致し方はなかったろう。父は母の許を訪れることもなく、二人が寝所を共にすることは全くなかった。父が良人として父親としての顔を見せるのは、母や嘉門の許ではなく、側室やその子どもたちの許だったのだ。
それでも、父は嘉門にはひととおりの父親らしい情愛は注いでくれた。だが、父と嘉門が親しく行き来することを母が嫌うため、嘉門が父と父子らしい刻を過ごしたのはごく限られていた。
色目
または、冬を表現する色目としては
〝氷(こおり)重(がさね)〟がある。
白粉花(おしろいばな)
花ことば―あなたを想う、三月の花
【壱】
江戸の町も正月を過ぎ、松ノ内が終わると、華やいだ雰囲気も消え、常と変わらぬ佇まいを見せ始める。それでも、空高く上がった角凧が悠然と泳いでいるのを見上げ、嘉門は眼を細めた。
寒走った冬の空は薄蒼く、あまり温かみはなかったが、どこかで子どもがこの凧を一生懸命に上げているのかと想像すると、自ずと微笑ましい想いになる。
しばらく見るともなしに空を眺めていた嘉門はうーんと伸びをして、再び歩き出す。ただでさえ上背のある彼がそうやって伸び上がると、余計に並外れた長身が目立ってしまう。
ふいにやわらかな風が頬を撫でて通り過ぎ、嘉門はこのまま家に帰るのが億劫になってしまった。
―帰れば帰ったで、また、母上のあの小言を耳にせねばならぬからな。
胸の内で独りごちて、つい苦笑する。
嘉門の母お藤の方は現在は落飾して祥月院と名乗っている。嘉門の父石澤琢磨(たくま)兵衛(ひようえ)は直参の旗本で五百石の扶持を幕府より賜っていたが、二年前、病を得て亡くなった。
嘉門は弱冠十五歳で亡き父の跡目を相続し、石澤家の当主となり、今日に至っている。
嘉門の両親は、嘉門がまだ物心つくかつかぬ頃から、仲が悪かった。この夫婦の仲が冷淡で険悪なのは屋敷内では誰も知らぬ者がいないという有り様で、言うなれば、それだけ仲の悪さが人眼についていたということでもある。
その主な原因としては、ひとえに母の態度によるところが多かっただろう。母は公方さまとも縁戚関係にある親藩大名松平越中守親嘉(ちかよし)の一人娘であった。
親嘉は頭脳明晰で人柄も清廉潔白、時の将軍家のお憶えもめでたく、いずれは老中にまで出世するのではと一部では早くからひそかに囁かれていた人物であった。老中は幕府の要職である。母はその姫君として幼時からあまたの奉公人にかしずかれて大切に育てられた。
母にしてみれば、自分は長じて己れの身分立場に見合うだけの大名の許へ嫁ぎ、その奥方となるのだと信じて疑っておらず、また、そういった望みがあながち無理なものだとはいえないほど、母は恵まれた、やんごとない生まれの姫であった。
しかし、母のその願いはあっさりと覆されることになる。母が六歳になった年、父親嘉が許婚者を決めた。
当時、親が勝手に縁談を決めるは格別珍しくはない。母の場合も父―つまり嘉門にとっては祖父がその盟友である石澤守尚(もりひさ)の嫡男との婚約を取り決めたのである。守尚の嫡男兵衛は幼名を惟(ただ)治郎(じろう)と名乗っており、母よりは三つ上の九歳になったばかりの少年であった。
守尚と親嘉は無二の親友であり、その親交は身分を越えたものであった。若い砌、町の道場で知り合った二人は忽ちにして意気投合し、互いに切磋琢磨して腕を磨いてきたのだ。事実、守尚も親嘉も二人共に師範代を務めるほどの卓越した剣の腕を持ち、本気で打ち合えば、なかなか勝敗がつかなかった。
むろん、町の道場に身分を隠して時折ひそかに通っていたその頃、親嘉もまだ若く、気心の知れた友である守尚でさえ、この親友が後に幕閣の中枢において重きをなす老中首座にまで昇りつめようとは想像だにしていなかった。
二人は道場で汗を流した後は、小さな縄暖簾で酒を酌み交わし、様々な話に打ち興じた。むろん、大藩の藩主である親嘉はお忍びであある。それでも、二人の話は尽きることがなかった。政から始まって、好みの女の話まで、若者らしい好奇心で飽くことなく弁舌をふるったものだ。
そんな二人であってみれば、互いの息子と娘をゆくゆくは娶せようという話になったとしても、いささかの不思議もない。
もっとも、父親同士はそれで良かったのだろうが―、当の子どもたちにとっては、それが不幸な結婚の始まりになったのだから、結果的には良かったのかどうか。
父は新婚早々から側室を持ち、その女は一男一女をあげている。異父弟は嘉門よりふた月遅れの同い年であった。が、幸か不幸か、その弟は乳呑み児の時分に夭折し、側室も弟の後を追うように儚く亡くなった。
腹違いの弟とその生母が亡くなった時、屋敷内では悪しき噂がまことしやかに流れた。
あろうことか、正室であるお藤の方が側室と異父弟をひそかに呪詛していた―というものだ。その頃、嘉門は当然ながら、まだ赤児であり、当時のことは一切与り知らない。我が母親ながら、否、母であるからこそ、そんなこともありかねないと思ってしまうのは、あまりにも親不孝なことだろうか。
実際のところ、母は気性の烈しいひとだった。いや、その名のとおり藤の花のごとく麗しい花のかんばせを持ちながら、権高で松平家の姫であるという誇りを支えに生きているる。父が母を疎んじたのも、その気性のせいであったといわれている。父を格下の一旗本と端から侮り、けして良人として認めようとしなかったその心根が父には耐えきれなかったのだ。
その癖、父が側室を持てば、嫉妬のあまり憤り、父よりもむしろその愛を奪った側室を恨んだ。同じ男として見れば、嘉門は父の方に同情もしたくなるというものだ。嘉門はお藤の方を母として大切に思ってはいるが、一女性として母を見た時、こんな女だけはご免だ―と思わずにはいられないのである。
父が亡くなり、母にとっては一粒種である嘉門が家督を継いでからというもの、母の関心は今度は良人から息子に移った。元々、良人に愛されぬ鬱憤を、息子を溺愛することで晴らしていたような母である。その溺愛ぶりはますます深まり、正直、この頃では嘉門でさえ辟易とする始末。
殊に顔を見れば、
―一日も早うご正室をお持ちになり、この母に孫の顔を見せて安心させて下さりませ。
と矢のような催促である。
嘉門にしてみれば、良い加減にして欲しいと叫びたいところを、ぐっと我慢しているのだ。
嘉門は年が明けて、十七になった。部屋の奥に座って学問に明け暮れるよりは、町の道場で剣を握っていた方が性に合う若者だ。十七歳という年齢は当時としては、けして結婚するのに早くはなく、むしろ適齢期ともいえる。が、血気盛んな年頃の彼にとっては、妻を娶るということもどこか他人事のような遠い世界の出来事のように思えてならなかった。
それに―、幼時から両親の仲の悪さを見せつけられて育った嘉門には、結婚が人生最大の不幸のように見えても致し方はなかったろう。父は母の許を訪れることもなく、二人が寝所を共にすることは全くなかった。父が良人として父親としての顔を見せるのは、母や嘉門の許ではなく、側室やその子どもたちの許だったのだ。
それでも、父は嘉門にはひととおりの父親らしい情愛は注いでくれた。だが、父と嘉門が親しく行き来することを母が嫌うため、嘉門が父と父子らしい刻を過ごしたのはごく限られていた。
作品名:白粉花(おしろいばな)~旗本嘉門の恋~ 作家名:東 めぐみ