シリエトクの男
男が知床に帰ってきたのは8年ほど前のことだ。
大学卒業後は、東京に本社を置くメーカーの営業職に就いたが、
精神疲労による鬱から、その後、職場に戻ることはなかった。
2年前に他界した祖父母の家で、今は父親と二人で暮らす。
幼い頃に離別した母親とは、かれこれ何十年も会っていない。
父親との仲は、決して良いとはいえないだろう。
木訥とした父親とのやり取りは、もっぱら置き手紙だ。
漁のシーズンが落ち着けば、冬場は外をほっつき歩く父親とは、すれ違うばかりだった。
「ったく、またか」
網走帰りの男が自宅で目にしたのは、この日も『今日は戻らない』という父親の書き置きだった。
男は前職を退いた後、しばらくは実家に引き籠もっていたが、
知床の自然を観光客に案内するという、ネイチャーガイドを次の職に選んだ。
始めるきっかけとなったのは、幼い頃、両親に連れられていった知床の国立公園だった。
あの頃は父親とも、人並みに「親子」という関係性は保たれていたかもしれない。
「トンコリ」の存在も男を再出発させるきっかけとなった。
トンコリとはアイヌの民族楽器として伝わる弦楽器である。
優しい音色を奏でながら知床の自然を案内するというスタイルは、観光客のウケもいい。
そのトンコリを教えてくれたのも、父親だった。