狂言誘拐
春の悪夢
地響きのような音も聞こえて来た。島野と大山の妻たちは、手荷物を持って三階に上がり、島野親子と中野、そして亜矢子は、必死で大山の身体を引き上げる。更に水が上がってくる恐ろしい音が聞こえると同時に、階段にも水が押し寄せてくる。尚も四人が必死で、老人を引っ張り上げる。三階に丁度上がり切ったところで、二階の踊り場を超えて水がきた。
これ以上津波がきたらどうなってしまうのだろうかと、中野は思った。不安だった。前代未聞の恐怖を目の当りにしている。現在、ほかの建物内にいる人々は大津波を目の前に、どうしているのだろうか。窓の外を襲来する黒い大津波。窓の傍に立っていた木々が次々と倒れ、駐車場の車が根こそぎ流されて行く。いつこの建物さえも流れてしまうのではないかという不安な状況の中、固唾をのんで見守るばかりだ。
「車がのべずまぐなすだ。でっつりとな」
「ああ、もう車はだめだな。買ったばかりなのに」
島野の息子が云った。
「そんなこと云ってる場合じゃないわ」
彼の母が云う。
「命が助かっただけでも儲けもんだ」
父親が云った。
「あんねも、いがったなぁ」(おねえさんも、良かったな)
大山老人が泣き顔で亜矢子に云った。