狂言誘拐
深夜のショッピング
銭湯から出た中野は、またマスクとサングラスで顔を隠している。暗い裏通りの通行人は皆無で、そんな必要もなさそうだったが、知り合いに声をかけられるのを警戒していた。冷たい風に吹かれながら自転車置き場で十分余り、亜矢子が出てくるのを待っていた。中でテレビを見ていれば良かったと、中野は後悔していた。
漸く亜矢子が笑いながら出て来た。すっぴんの方が彼女はきれいだった。
「中でテレビを見ていればよかったのに」
「そうですね。でも、最近テレビを見る習慣がないというか、テレビ自体が壊れてしまいました。地デジテレビを買う余裕はないし……どうでしたか?初めての銭湯は」
「可愛いおばあさんとお話してたの。いいわねお風呂屋さんって。身体も心もあったかくなったわ。触ってみる?」
どこを触れというのだろう。中野はからかわれていると思った。
「男風呂から亜矢子さんの声が聞こえました。昔は女風呂を覗く奴がいたんですよ」
「だめよ。そんなことしちゃ」
「私はそんなことしませんよ」
半ば嘘だった。初めて行った或る銭湯で間違えて女風呂に入りそうになり、中野はそのときに若い母親の裸身を見たことがある。誰にも気付かれずに退散したのだが、生きた心地がしなかった。