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「レイコの青春」 10~12

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 「私の姉と、この辺に住む若い婦人達が、
 『マーガレット会」と呼ぶ親交グループを作っておりました。
 この人たちがまず中心になって、戦後まもなく
 桐生に託児所がつくられました。
 朝早く仕事に出て、夜遅く帰ってくる親ごさん達の身がわりになって、
 子ども達を預かり世話をすることになりました。
 場所は、たくさん残っていた三角屋根の織物工場跡の建物などを
 利用したそうです。
 最初は「すすきの幼園」と言う名前で呼ばれました。
 この当時には、まだ、保育園という名称は誕生していません。
 保育園として桐生市に申請したのが、昭和21年4月のことだそうです。
 児童福祉法が制定される前(昭和23年1月に制定された)のことで、
 この人たちこそが本当の意味での、
 桐生市における保育の先駆者たちです。」


 一息ついた園長先生が、レイコにお茶を入れてくれました。
にこやかに受け取るレイコを見つめながら、園長先生がもともと細い目を、
さらに細くしてほほ笑みます。
しかし柔和に見えるこの笑顔が、実は要注意のサインなのです
もうこうなると、誰にも園長先生の『お話』は、
止めることができません。


 「あなたも、よくご存じのように、
 桐生市は戦災も、空襲の被害も受けないままで無事に終戦を迎えました。
 そのために、被災したひとたちや、海外から引き揚げてくる人たちで、
 一時期、人口が爆発的に増えて、子供たちの数も
 急激に増えることになりました。
 子どもたちを預かってくれるところがあると評判になったようで、
 たちまちにして、60~70人くらいまで集まったそうです。
 当時、先生と呼ばれたのは5~6人で、
 10人くらいの子供たちをひとまとめにして
 それぞれが面倒をみていたというお話です。
 学校へ行く前の子供たちがほとんどで、それでも最年少には
 2歳くらいの子供も何人かは居たようです。
 保育のやり方もたいへんに、おおらかだったようです。
 保母さんという職業名が一般的になったのは、
 それから数年後のことです。
 昭和24年頃になってから群馬県でも、保母資格を授与する為の
 講習会が開かれるようになりました。
 その折りの講習会に参加をして、私も保母の資格をいただきました。
 7月、8月、9月に、3回にわたってそれぞれ1週間ずつの日程で、
 講習会が開かれました。
 そういう取り組みが昭和30年くらいまで続いていたと思います。
 その後には、今日のような保育の専門学校が始まりました。」



 「私が保育者としてのスタートしたのは、
 昭和25年に、長女の幸子を出産してからのことです。
 最初の長寿院での保育園生活には、とても楽しいものがありました。
 保育園の周りには、いちょうの木などがたくさんあって
 みんなで木登りなどもいたしました。
 他にもいろんな遊びを考え出しました。
 お散歩にもよく出かけました。
 近所の公園やお宮まで、1時間くらいかけて歩いていきます。
 どんぐりがなどがいっぱいあって、しめじやあけび、
 からすうりなども見つけました。
 じねんしょ(山芋)は木につるを巻いていますので、印を付けておいて、
 秋には葉っぱが枯れますので、育った頃を見計らって掘りに行きます。
 柿もいっぱいに実っていました。
 みんなの公園ですから、誰も文句などは言いません。
 ある時、坂の下の川の草の茂みを何気なくのぞいてみると、
 そこに、どじょうが沢山いました。
 『あら、こんなところに貴重なたんぱく質がいるじゃないの。』と、
 たいへんに驚きました。
 これを食べられる人達は、たいへんに幸運だと思いました。」


 「当時の保育料の、正確な金額などは忘れてしまいました。
 お金をはらえない人もいましたし、
 その頃は石鹸もなくて、しらみだらけの子どもたちもいました。
 第1期の、昭和26年度に入ってきた子どもの親たちが、
 花を栽培して、それを売って石鹸を買ったりしてくれました。
 遠足へ行こうって、計画をしても、
 お弁当持って来られないという、子どもさんもいるくらいです。
 ですから、前の日の夜10時くらいにお家を訪ねて
 「お母さんが用意したってことで遠足に持たせてください。」と、
 そうっと、おやつなどを渡しました。
 お弁当は私が持っていきますからと、お母さんを説得して、
 『先生が用意してくれるからと言って、遠足に出してください』
 と、お願いをしてきました。
 お弁当がないから休むことになったら、
 子供さんが可哀想じゃないですか・・・・
 次の日にみんなで遠足面白かったね~なんて、
 話すのに、自分だけ参加してないなんて、とても、可哀想ですもの。
 創世記のころには、そんな逸話などがたくさんありました。
 保育とは、母も子も保母も含めて、
 心というものを育てるのがお仕事です。
 そうでしょう、レイコちゃん」



 にっこりと笑って、ようやく園長先生が一息をつきました。
もしかしたら・・・・園長先生の長い昔話が終わりそうな気配に、
ようやくのことで、なりはじめてきたような気がします。