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仮面舞踏祭~カーニバルの夜に~

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「あなた、まさか小百合ちゃんにも手を出してたの!?」
 最後は悲鳴のような声になった。
 小百合というのは、他ならぬ友里奈に伸吾の辞職とこの町の仮面舞踏祭を教えてくれた後輩である。
 その刹那、伸吾が友里奈の背に回した手に力を込め、もの凄い力で引き寄せられた。熱い唇が彼女の冷たい唇を塞ぐ。
 幾らもがいても、男の力は一向に緩まない。それは三年にも渡る二人の付き合いの中でただの一度も経験したことのないキスだった。男の所有欲と欲望を凝縮したような激しい、貪るような口づけ。
 身体と身体がぴったりと密着し、固くなった彼自身が私の下腹部に押し当てられ、熱く濡れた吐息が耳朶をくすぐった。男性にしては、ほっそりとした長い指先が友里奈の胸の先端を一瞬、掠めて通り過ぎた。
 あたかも蝶の羽根が通り過ぎてゆくかのような感覚。触れたか触れないかの絶妙な加減は女の身体を知り尽くした男が女を燃え上がらせ、その気にさせる手管だと知っている。
 以前なら、たったこれだけの愛撫ともいえない愛撫で友里奈の身体は、彼に触れられる歓びと次にやってくるであろう官能の訪れへの期待がさざ波のように一挙に押し寄せていた。
 友里奈だけではない、この男は自分が女たちに及ぼすことのできる影響を嫌になるくらい知っている。だからこそ、それを利用して多くの女たちの間を巧みに泳ぎ回ってきたのだ。一度剝がれ落ちてしまえば、金メッキを塗っただけの偶像は、ただのつまらない軽薄な男でしかなかった。
 こんな中身のない男のどこに、友里奈だけでなく、多くの女たちが惹かれたのか、今となっては判らない。
 なのに、自分でも信じられないことに、友里は何も感じなかった。彼女の身体に、これまで当然のように彼が触れることによってもたらされていた変化は少しも起きなかった。 彼はますます友里奈に身体を押しつけ、欲望と興奮を示す高ぶりは固く張りつめつつある。伸吾の吐く息が荒くなった。 
 皮肉なものだと思わずにはいられなかった。つまらないと思うような女でも、いざ失うとなれば急に惜しくなったのか、それとも、伸吾の心に急な変化でも起きたのか。
 が、今となっては、この男の心境の変化など取るに足りないことだ。この類の男は幾度でも同じことを平気で繰り返す。反省はするのかもしれないが、それはほんの一時的なもので、所詮、蝶が新しい花から花へと飛び回るのと同じ、また別の女の許に行くに決まっている。
 伸吾のこれ以上はないというほどの裏切りは、流石に上に何とかがつくくらいお人好しの友里奈にも多少の人生勉強をさせたのだ。
 伸吾の口が友里奈の口を開かせようとしている。彼が彼女の口をこじ開け、舌を押し込んでこようとするのを感じ、友里奈は今度こそ、ありったけの力を込めて彼を突き飛ばした。
「良い加減にしてくれない?」
「おまえがこんな良い女にもなれるんだったら、あの時、別れたりはしなかった」
 こんなときに男が使いそうないかにもの台詞だ。今更、取り合う気にもなれなくて黙っていると、何を勘違いしたものか、彼は格好つけて前髪をかき上げる。
「おまえに逢いたくて、小百合にこの仮面舞踏祭のことを聞いて、取る物も取りあえず、飛行機に飛び乗ったんだぜ」
 全く、どこまで厚かましく恥知らずな男なのだろう。たとえいっときたりとはいえ、こんなろくでなしに夢中だった自分が呪わしい。
「あなたはもう妻子持ちなのよ?」
 友里奈が乾いた声音で言うのに、伸吾が邪気のない笑顔で言った。
「あいつとはもう別れたよ」
「別れたって、赤ちゃんが-」
「三ヶ月に入ったばかりのところで、腹の中で死んじまってさ。元々、赤ん坊のために籍入れたようなもんだから、肝心の子どもがいなくなったら、それでおしまいさ。子どももいないのに、あんな女と結婚なんてするものか」
 友里奈は呆然と眺めていた。ただ眼前で世にも無神経で愚かな人でなしの男が人の気も知らずにぺらぺらとまくしたてているのを。
 それにしても、よく喋る男だ。仮にも、ほんのわずかな間にせよ妻であった女と不幸にしてこの世の光を見ることな逝った我が子について語っているというのに、どうだろう、この悪びれない、あっけらかんとした口ぶりは。
 むしろ、厄介払いできて清々しているとでも言いたげに見えるのは、私の勘ぐり過ぎというものだろうか。
 可哀想に、あの子-友里奈のかつて親友だった香恵は、こんなつまらない男のために人生を台無しにしてしまったのだ。
 そして、私も。
 だが、友里奈は香恵のように犠牲を払っていないだけ、まだ救われるかもしれない。
 気がつけば、手が勝手に動いていた。
 パアーンと乾いた音を立てて伸吾の頬が鳴る。殴られた彼の方も平手打ちした友里奈の方もひたすら呆然としていた。
 これは伸吾のせいで女の花の盛りの時期を無為に過ごすことになった、私からのせめてもの報復。いいえ、友里奈だけでなく、香恵の分、K社専務令嬢、これまで彼の良い加減奈言葉に泣かされてきた数え切れないほどの女たちの怒りと涙がこもっている一撃だ。
 と、友里奈の頬を黄金の花びらがかすめた。
 見上げると、無数の金の紙吹雪が宙を舞っている。友里奈はハッとした。
 今しも黄金のカボチャが前を通り過ぎようとしている!
「内藤伸吾!」
 きらきらしいカボチャが友里奈の真ん前を通過してゆくまさにその瞬間、彼女は大音声で叫んだ。十回唱えれば、その相手と後腐れなく別れられるという魔法の呪文、その十回めを。
 伸吾がギョッとしたような表情で友里奈を見るが、むろん構いはしない。
「いったい、何事だ?」
 伸吾は恐らく、このカーニバルの謂われを知らないのだろう。
 伸吾の上にも、友里奈の上にもあまたの金色の花びらが雪のように降り注ぐ。通り過ぎようとしている仮装行列の一行がひっきりなしに紙吹雪をまき散らしているのだ。
「憎らしい男を忘れるための取っておきの呪文よ」
 友里奈は自分のつけていた仮面を外すと、思い切りよく投げ上げる。紫の蝶は真夏の夜の熱気と人いきれが立ちこめる夜空へと高く高く飛んでいった。
「せいぜい遠い異国で誰か別の女(ひと)を口説くと良いわ」
 友里奈は極上の笑みを浮かべると、彼の方を見ようともせずに踵を返し、まだ興奮冷めやらぬカーニバルの人群れの中へと紛れ込んだ。
 後には、ただ空気の抜けたボールのように腑抜けて突っ立っている伸吾を残して。
 黄金のカボチャと仮装行列は既に視界からは見えなくなっていた。

(了)