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仮面舞踏祭~カーニバルの夜に~

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風に乗って、何とも哀愁を帯びた調べが運ばれてくる。そのどこか郷愁(ノスタルジー)を感じさせる曲が突如として陽気なサンバに変わった。
 途端に、周囲から口笛や野次が上がり、道の両脇に陣取った何列ものカーニバルの見物人が色めき立つ。
 次第に激しさを増す旋律に合わせるかのように、人々は思い思いに身体を動かし踊る。
それは、どこか官能的でほんの少しの淫猥さを醸し出す光景だ。
 友里奈は熱に浮かされたように身体をくねらせる人たちを横目で見ながら、見よう見まねで踊った。異国の夜は、まるでお伽話に迷い込んでしまったかのように非現実的な雰囲気が漂っている。
 そう、カーニバルの夜はここにいる誰もが主人公なのだ。別れた恋人に愛想を尽かされた冴えない私のような女でも、ヒロインになれる。
 周りの人たちの興奮が伝染(うつ)ってしまったかのように、友(ゆ)里(り)奈(な)の身体にも弱い微弱電流のような興奮が駆け抜ける。
 異国で迎える真夏の夜は、祭特有の熱気を孕んで更けてゆく。時を増すにつれて密度か濃くなる一帯の空気は、いやが上にも高まる人々の期待のせいかもしれない。
 サンバは元々、ブラジルで発祥した音楽だ。時の流れさえ、ここだけは緩やかではないかと思ってしまいそうな中世の名残を色濃く残すこの町とサンバは似つかわしくない。
 ひと昔前、この町にはブラジル移民が多く居住していたという。彼等が生まれ故郷の音楽を遠く離れたここヨーロッパのとある小さな国に伝えたというのだが、真偽のほどは定かではない。
 友里奈は眼を一杯に見開いた。
 いくら強い風が側を吹き抜けたからといって、仮面が飛んでゆくはずもないのに、無意識に片手で仮面を押さえる。
 隣に佇む若い男もやはり、仮面をつけている。とはいっても、片眼がね風のそれは、男の端正な顔立ちを覆い隠すのに殆ど役に立っていない。
 友里奈の被っている仮面は紫の蝶を象っており、周囲を金の縁取りがしてあり、羽根の部分にはきらめく細かなビーズが無数に縫い付られている。
 腰まで届く丈なす黒髪ここに来る前、ヘアアイロンで十分に裾をカールさせ、巻き髪風にしてきた。胸元の広くカットされた黒のシルクのドレスは丈こそ膝下まであるものの、両脇に深くスリットが入っている。歩く度にスリットから白いすんなりとした脚が見えるだろう。
 乳房が見えるぎりぎりのきわどい部分まで深く刳られたうなじには、大粒のキュビーックジルコニアのネックレスが燦然と輝く。雫型のそれは、友里奈のきめ細やかな肌をさらに魅惑的に見せるのに一役買っているに違いない。
 隣の異国の男が先刻から、自分の方をちらちらと見るともなしに見ていることなど、とうに承知の上だ。
 だが、友里奈は何も見知らぬ異国人の気を引くためにここに来たわけではなかった。いや、今、自分の周囲に何千、何万の男が屯っていようが、友里奈の黒い瞳には誰も映ってはいない。
 彼女が今夜、ここに来たのは、ただ想い出を棄てるためだった。皮肉なものだ。この世界でも有数といわれる仮面舞踏祭には昔から古い言い伝えがある。それは、これが恋の始まりと終わりを司る祭典だというものだった。
 この舞踏会の大元となったのは、かの有名な童話〝シンデレラ〟だというけれど、実のところ、それも定かではないという。とにかくその年この町でに収穫されたカボチャの中で最も大きなものを選び、そのカボチャをこれでもかというほど飾り立てる。それを馬車に見立て、前後左右をシンデレラの登場人物-すなわち、主役のシンデレラ初め、王子、魔法使い、意地悪な継母、姉たち-に扮した人々が取り囲み、町中を練り歩くのだ。
 もちろん、馬の仮面を被った者もいるし、御者役もいる。そして、その仮装行列を見物する人々もすべて思い思いの仮面をつけるのが習わしとなっている。
 このカボチャの馬車が通るときに、馬車が視界から消えてしまわない中に愛の告白をして相手からオーケーの返事を貰うと、二人は永遠に別れないというジンクスがあるという。裏腹に、どうしても別れたい相手がいれば、馬車が通り過ぎるまでに十回その名前をきちんと繰り返して唱えれば、後腐れなしに別れられる-と、まあ、単なる迷信にすぎないような言い伝えがあるのだ。
 しかし、単なる迷信と甘く見てはいけない。このジンクスは結構、効果ありとのことで、この町の悩める男女だけでなく世界中から参加するためにわざわざやってくる若者が多いのだ。普段はまるで中世の昔から時が止まったかのように静まりかえった小さな町に、その日だけは異様に人が溢れ返るのは毎度のことである。
 どうせなら今夜だけは、いつもの自分とは全く違う見知らぬ女を演じてみたい-そう思って、めかし込んできた友里奈だった。
 そこまで考えた時、友里奈の中で苦い記憶が甦る。
-お前のような、つまらない女、もう懲り懲りさ。
 何という屈辱! 友里奈の三年来の恋人にしてフィアンセを奪ったのは、これまた十年来の親友である香(か)恵(え)であった。
 香恵が何か相談事があるといって伸吾に時々逢っていたことは知っていたけれど、まさか、それが単なる口実だったとは考えだにしなかったというのが正直なところだ。
-元彼と寄りを戻したがってるようだぜ、彼女。
 伸吾はたまに香恵の〝相談事〟とやらを話してくれたし、友里奈も伸吾の話を信じて疑いもしなかったのだが、現実はどうだったのだろう。恐らく伸吾は香恵が嘘をついていると最初から見抜いていて、わざと火遊びを始めたのだ。そして、危険なゲームが気がつけば、後戻りのできない状況になっていたというわけ。
 馬鹿らしい。友里奈は余計な物想いを振り切るように、首を振った。いかにも〝良い女〟風の外見からは似合わない仕草は、まるで水からたった今、陸(おか)にあがったばかりのびしょ濡れの犬が体を震わせて水気を飛ばすのにも似ている。
 隣の片眼がねの男が驚いたようにこちらを見つめ、肩を竦めるのが判った。友里奈はそんな男の反応には全く頓着せず、ひたすらカボチャの馬車がやってくるのを待った。この夜のために、退職金の半分をはたいてヨーロッパの小さな国-片田舎の町くんだりまで来たのだから。
 単なる子供だましの迷信にすぎなくとも、伸吾を忘れられる一つのきっかけになればと思っていた。そう、と、友里奈の小さな面にほろ苦い微笑がひとりでに浮かび上がる。
 私はあの卑劣な男にあそこまで虚仮にされたのに、まだあの男に未練があるのだ。
 記憶がまた無意識の中に巻き戻されてゆく。あたかも出来の悪い素人自主制作の映画を見ているように、〝あの日〟が頭の中でフラッシュ・バックする。
 会社帰りに立ち寄った駅前のスナックで、伸吾からいきなり別れ話を切り出された、あの夜。友里奈には、まさに晴天の霹靂だった。正式な婚約こそしていなかったが、既に互いの家にも挨拶に行き、どちらの両親からも結婚についての承諾を得ていた。
 結納や式の話もつい半年前までは伸吾と熱心に交わしていたのだ。なのに、半年前くらいから、伸吾は急にその手の話題-二人の未来とか結婚の話を避けたがるようになった。