夜の天使
最近、どういうわけか、師匠はこの手の笑えぬ冗談をわたしで試すようになった。
単純な反応しか返さないのが、それほど面白いのだろうか? 心臓がいくつあっても足りないわたしには、そこまで楽しいゲームには思えない。
第一、師の好みがわたしとは掛け離れている事は、重々理解している。
たまに部屋を訪ねてくる女性たちは、誰もが均整の取れた美しい容姿と、冴え渡る頭脳の持ち主だった。
彼女らとどんなやり取りを交わしたのか、詳しいいきさつを知る故はない。だがまぁ、彼と釣り合う女性となれば、生半可な人物ではいけない、という意味はよく分かる。
分かるからこそ、このゲームの意図は、真に理解不能だった。
不意に、耳元でさざ波のような忍び笑いが響く。
俯いていたわたしは、その響きの近さに戦慄(おのの)いて、後ろに一歩身を引いた。
悟らせずに動いたのか、わたしが考え込んでいたせいか。長い髪が触れるほどに近く、彼が距離を詰めていた。
「な、なんですか」
「今日は随分気がそぞろみたいだね。何か、悩み事かな?」
おっとりと微笑まれ、引きつる頬を必死に宥める。どこまでも分かっているくせに、白々しいにも程がある。
「わたしのことより、師匠(せんせい)はいかがなんですか? 今扱ってらっしゃる研究、確か第二次諮問会が近かったと思うんですが」
「おかげ様で、順調ですよ。貴方にも少し、資料作りを手伝ってもらいたいのだけどね」
「承りましょう」
にこにこと笑みを交わしながらも、間合いを取り合う剣士のように予断ならない緊張があった。
次第に追い詰められていたわたしは、気をつけていたはずなのに、腰の後ろにシンクの縁を当てていた。背水の陣とは正にこの事か。
「あの……資料作りはどうなりました?」
「発表は来週頭だよ」
いやその前もって準備をですね、と言いかけた口を、たおやかな指が牽制した。
「どうしてわたしから遠ざかるのかな?」
「……貴方が近づいてくるからです」
「逃げるから追われる、とは考えない?」
もはや鼻先数センチの距離で、淵に引きずり込もうとする、美しい水魔が囁いている。
これは罠だ、と脳が警鐘を鳴らす一方で、わたしの魔力を束ねる神経が、抗いがたい誘惑に屈しようとしている。
息苦しさに視界が揺れて、後ろ手でシンクを握り締めた。
「その冗談、全然面白くないですから、やめて下さい」
「冗談だなんて、酷い事を言う子ですね」
どっちが酷いんだ、と理性がツッコミを入れている隙に、顎をつと持ち上げられる。強制的に視線を上向かせられて、否応なしに、暁の夜空の瞳と向き合う羽目になる。
それでも抵抗しようと試みるものの、あやすように名を呼ばれて、腰砕けになる。
神秘的な瞳と、美しい指と、蠱惑的な囁きに捕らえられて、わたしは押しピンで止められた昆虫のように、もはや為す術がない。
花びらのような唇がそっと堕ちてくる。
見ていられなくて、眼を瞑(つむ)る。
空気が震えて、彼は秘やかに微笑っている。
本当は、とっくに分かっていたのだ。わたしの師匠は、天使ではない。わたしの師匠は――