夜の天使
わたしの師匠(せんせい)は、とても美しい人だ。
さらさらと流れる銀の髪は美しい蛇のように肩に掛かり、その輝きはしっとりと冷たい。
埃っぽい研究室に日ながこもっていると言うのに、近づくとほのかに快い香りがする。実験に使う薬草の香りが、すっかり身に染み付いているせいだ。
長く裾を引くローブと白衣は薬液のせいでまだら模様だけれど、布を重ねたその下には、奇跡を生み出すなよやかな手がある。
その声は天上の音楽のようで、静謐(せいひつ)な瞳には英知の光、麗しい面長の顔に絶えず微笑みを湛(たた)えている様は、服こそ違えど、まるで絵画の天使だった。
実際、二年も側で教えを請うた今でも、わたしは師が自分と同じホモ・サピエンスかどうかを疑っている。
その美貌、知性、魔術の才、どれを取っても、師はまるで他の導師と違った。
そして周りと比べれば比べるほど、彼の非凡はいやまして、ますます神秘掛かった、浮世めいた存在へとなっていくのだった。
それは私を孤独にさせるばかりだよ、と師は愚痴るけれど、背筋が震えるほど美しい物を見るとき、人はそこに神性を感じるものだ。
空に轟く稲光を見て、あれは師が起こしたのだ、と言われれば、わたしはそれを易々と信じる。
師ならば、それぐらい袖を振っただけで為してしまうかもしれない。そうでないとしても、全体、どうして彼に不可能だと言えるのだ?
それこそ、わたしは師の踏んだ土を拝んでまわるほど、彼に心酔しきっていた。
そりゃあ、長く師事していれば、想像にない一面を窺い知ることもある。
研究に没頭するあまり、食事を摂り忘れて、空腹に倒れるのは日常茶飯事だ。それでいて、小さな口で品よく、三人前をぺろりと平らげる大喰らい。
なんでも器用に生み出す魔法の指を持つはずが、懲りずに新進気鋭の創作料理を編み出すせいで、二人で腹を下したこともある。
誰にでも愛想よく、美しい微笑みを向ける癖に、気に食わない相手の話には、相槌を打ちながら居眠りをしている。
寝起きの機嫌は七割減で、朝の笑顔は大抵芝居だ。
わたしは、皆が思い描くほどに彼が聖人君子でないことも、慈悲の天使でないことも、知っている。
その上、師はその微笑みと声色でわたしを丸め込む才に長けているのだが、騙される分を差し引いても、彼は特別の尊敬を捧げるに能(あた)うる人だった。
奔放で豊かな発想力と、研鑽(けんさん)の下の確かな技術で、彼はいくつもの優れた魔術を編み出した。無から有を見出だす画家のように。
その功績を讃えて曰く、大陸の文明は二百年分先へ進んだ、とある??師はこの齢にして既に、教本に名を連ねていた。もっとも、彼の正確な年齢をわたしは知り得ないのだけれど。
それに引き換えわたしときたら、独創性などてんでなく、ただひたすらに記録を取るのが趣味のような、地味な魔導師なのだった。
若い娘の身空で、趣味はまるでご隠居だね、とは親しい友人の評である。
ぐうの音も出ないわたしは、仕方なく、また数字を書き留める作業に戻る外ない。わたしという娘は、見目も知も才も平々凡々の、およそ取り立てることがない、名もなき端役に等しかった。
だから、わたしのこの恵まれすぎた立場は、しばしば批難の対象になる。
正確にはしばしば、ではなく、概ね毎日、詰(なじ)られ、謗(そし)られ、僻(ひが)まれていた。その主張も尤もなので、わたしはひたすら肩身を狭くして、陳謝するのが日常だった。
中傷を通り越して物理的な排除が始まった時、師はわたしに彼の才を尽くした呪(まじな)い除けを贈ってくれた。
だから、今はただの陰口で済んでいる。大陸一の魔導師の技を破れる者は、未だいなかったから。
??とまぁ、今までの説明でお分かりのとおり、わたしは傾倒しきった信者のように、師を讃え、敬い、崇め奉ってきたのだ。
もちろん、今もその気持ちは色褪せることがない。わたしの中で師は常に、永遠なる高みにいる存在だ。
いや、存在だったのだ。つい先週までは。
「また、貴方は書き物ですか」
好きですね、と降り積む雪のような声がして、慌てて顔を上げると、師が続き部屋の戸口にもたれて、藤色の瞳でこちらを見ていた。
「お茶をいれましょうか」
「ありがとう」
わたしは立ち上がり、ケトルを火に掛けた。
背後でさやさやと衣擦れの音がして、彼が部屋の中央まで移動したのが分かる。ちらり、と肩越しに様子を伺うと、わたしの書き付けを手にとって出来を確かめているようだった。
「これは何回計算したの?」
「三回です、師匠(せんせい)」
「この帳面(ノート)、全部?」
びっしりと数字の並んだ紙束を繰りながら、笑みを含んだ柔らかな声が響く。
実験値に誤差があっては、全ての努力が報われない。確かめ算がくせになっているわたしは、黙って肩を竦めてみせた。
せせらぎの音を立てて小川の髪を揺らし、師がクスクスと忍び笑う。
「貴方の勤勉さには、頭が上がりませんよ」
「それが唯一つの取り柄ですから」
ポットに入れた茶葉に沸騰した湯をかけると、香気が一気に立ち上(のぼ)る。
今日はハーブ入りのブレンドを選んだから、抽出時間は短くていい。砂時計を目算しながら、白磁のカップに注ぎ入れる。
淡くグリーンがかった、透き通る金茶の液体がなみなみと満ちた。
彼はいつもストレートを楽しむから、ティースプーンは付けない。ソーサーに乗せた紅茶を、零さぬように慎重に師の前へ差し出す。
「お待たせしました」
手を伸ばしてそれを受け取る代わりに、師は瞳を細め、妖艶ささえ感じる微笑みを浮かべて、砂糖菓子のような声色で宣(のたま)った。
「まぁ、そんなところが貴方の愛おしいところですけれど、ね」
がちゃり、ときしるような音で、カップがテーブルに着地した。
白いソーサーに紅茶が零れる。わたしが動揺を押し潰そうと努力している端から、震える指先を奪い取られる。
「ああ、手に掛かりませんでしたか?」
思わず眼をやってしまう。見なければよかった。白く長い指が、わたしの指を包むようにして持ち、火傷の有無を確かめている。
もちろん、そんなものはあるはずがない。
紅茶は手に掛からなかったし、とっくに熱湯ではなくなっている。
それは彼にもすぐに知れたはずなのに、体温の低い指がまだ片手を放さないので、わたしは急いでそれを胸元に引き戻した。
「いえっ、お構いなく!」
今まで固まっていた心臓が急にめちゃくちゃに脈を打ち始めて、胸が痛い。
一瞬気を取られた師匠が、ふと笑みを浮かべて、それから悲しそうな表情に『修正』するのがよく見えた。
「弟子の身の上を心配するのが、いけないことでしょうか?」
「ええ、だって、怪我なんかしませんでしたから」
今まさに作り直した顔だというのに、その縋るような、諭すような、悲哀を湛えた表情に根負けてしまいそうで、わたしは努めて床だけを見るようにした。
彼にとっては、わたしを思い通りに操ることなど、赤子をあやすに等しいのだ。
雰囲気に流されてはいけない。これもまた、作戦の内なのだから――
さらさらと流れる銀の髪は美しい蛇のように肩に掛かり、その輝きはしっとりと冷たい。
埃っぽい研究室に日ながこもっていると言うのに、近づくとほのかに快い香りがする。実験に使う薬草の香りが、すっかり身に染み付いているせいだ。
長く裾を引くローブと白衣は薬液のせいでまだら模様だけれど、布を重ねたその下には、奇跡を生み出すなよやかな手がある。
その声は天上の音楽のようで、静謐(せいひつ)な瞳には英知の光、麗しい面長の顔に絶えず微笑みを湛(たた)えている様は、服こそ違えど、まるで絵画の天使だった。
実際、二年も側で教えを請うた今でも、わたしは師が自分と同じホモ・サピエンスかどうかを疑っている。
その美貌、知性、魔術の才、どれを取っても、師はまるで他の導師と違った。
そして周りと比べれば比べるほど、彼の非凡はいやまして、ますます神秘掛かった、浮世めいた存在へとなっていくのだった。
それは私を孤独にさせるばかりだよ、と師は愚痴るけれど、背筋が震えるほど美しい物を見るとき、人はそこに神性を感じるものだ。
空に轟く稲光を見て、あれは師が起こしたのだ、と言われれば、わたしはそれを易々と信じる。
師ならば、それぐらい袖を振っただけで為してしまうかもしれない。そうでないとしても、全体、どうして彼に不可能だと言えるのだ?
それこそ、わたしは師の踏んだ土を拝んでまわるほど、彼に心酔しきっていた。
そりゃあ、長く師事していれば、想像にない一面を窺い知ることもある。
研究に没頭するあまり、食事を摂り忘れて、空腹に倒れるのは日常茶飯事だ。それでいて、小さな口で品よく、三人前をぺろりと平らげる大喰らい。
なんでも器用に生み出す魔法の指を持つはずが、懲りずに新進気鋭の創作料理を編み出すせいで、二人で腹を下したこともある。
誰にでも愛想よく、美しい微笑みを向ける癖に、気に食わない相手の話には、相槌を打ちながら居眠りをしている。
寝起きの機嫌は七割減で、朝の笑顔は大抵芝居だ。
わたしは、皆が思い描くほどに彼が聖人君子でないことも、慈悲の天使でないことも、知っている。
その上、師はその微笑みと声色でわたしを丸め込む才に長けているのだが、騙される分を差し引いても、彼は特別の尊敬を捧げるに能(あた)うる人だった。
奔放で豊かな発想力と、研鑽(けんさん)の下の確かな技術で、彼はいくつもの優れた魔術を編み出した。無から有を見出だす画家のように。
その功績を讃えて曰く、大陸の文明は二百年分先へ進んだ、とある??師はこの齢にして既に、教本に名を連ねていた。もっとも、彼の正確な年齢をわたしは知り得ないのだけれど。
それに引き換えわたしときたら、独創性などてんでなく、ただひたすらに記録を取るのが趣味のような、地味な魔導師なのだった。
若い娘の身空で、趣味はまるでご隠居だね、とは親しい友人の評である。
ぐうの音も出ないわたしは、仕方なく、また数字を書き留める作業に戻る外ない。わたしという娘は、見目も知も才も平々凡々の、およそ取り立てることがない、名もなき端役に等しかった。
だから、わたしのこの恵まれすぎた立場は、しばしば批難の対象になる。
正確にはしばしば、ではなく、概ね毎日、詰(なじ)られ、謗(そし)られ、僻(ひが)まれていた。その主張も尤もなので、わたしはひたすら肩身を狭くして、陳謝するのが日常だった。
中傷を通り越して物理的な排除が始まった時、師はわたしに彼の才を尽くした呪(まじな)い除けを贈ってくれた。
だから、今はただの陰口で済んでいる。大陸一の魔導師の技を破れる者は、未だいなかったから。
??とまぁ、今までの説明でお分かりのとおり、わたしは傾倒しきった信者のように、師を讃え、敬い、崇め奉ってきたのだ。
もちろん、今もその気持ちは色褪せることがない。わたしの中で師は常に、永遠なる高みにいる存在だ。
いや、存在だったのだ。つい先週までは。
「また、貴方は書き物ですか」
好きですね、と降り積む雪のような声がして、慌てて顔を上げると、師が続き部屋の戸口にもたれて、藤色の瞳でこちらを見ていた。
「お茶をいれましょうか」
「ありがとう」
わたしは立ち上がり、ケトルを火に掛けた。
背後でさやさやと衣擦れの音がして、彼が部屋の中央まで移動したのが分かる。ちらり、と肩越しに様子を伺うと、わたしの書き付けを手にとって出来を確かめているようだった。
「これは何回計算したの?」
「三回です、師匠(せんせい)」
「この帳面(ノート)、全部?」
びっしりと数字の並んだ紙束を繰りながら、笑みを含んだ柔らかな声が響く。
実験値に誤差があっては、全ての努力が報われない。確かめ算がくせになっているわたしは、黙って肩を竦めてみせた。
せせらぎの音を立てて小川の髪を揺らし、師がクスクスと忍び笑う。
「貴方の勤勉さには、頭が上がりませんよ」
「それが唯一つの取り柄ですから」
ポットに入れた茶葉に沸騰した湯をかけると、香気が一気に立ち上(のぼ)る。
今日はハーブ入りのブレンドを選んだから、抽出時間は短くていい。砂時計を目算しながら、白磁のカップに注ぎ入れる。
淡くグリーンがかった、透き通る金茶の液体がなみなみと満ちた。
彼はいつもストレートを楽しむから、ティースプーンは付けない。ソーサーに乗せた紅茶を、零さぬように慎重に師の前へ差し出す。
「お待たせしました」
手を伸ばしてそれを受け取る代わりに、師は瞳を細め、妖艶ささえ感じる微笑みを浮かべて、砂糖菓子のような声色で宣(のたま)った。
「まぁ、そんなところが貴方の愛おしいところですけれど、ね」
がちゃり、ときしるような音で、カップがテーブルに着地した。
白いソーサーに紅茶が零れる。わたしが動揺を押し潰そうと努力している端から、震える指先を奪い取られる。
「ああ、手に掛かりませんでしたか?」
思わず眼をやってしまう。見なければよかった。白く長い指が、わたしの指を包むようにして持ち、火傷の有無を確かめている。
もちろん、そんなものはあるはずがない。
紅茶は手に掛からなかったし、とっくに熱湯ではなくなっている。
それは彼にもすぐに知れたはずなのに、体温の低い指がまだ片手を放さないので、わたしは急いでそれを胸元に引き戻した。
「いえっ、お構いなく!」
今まで固まっていた心臓が急にめちゃくちゃに脈を打ち始めて、胸が痛い。
一瞬気を取られた師匠が、ふと笑みを浮かべて、それから悲しそうな表情に『修正』するのがよく見えた。
「弟子の身の上を心配するのが、いけないことでしょうか?」
「ええ、だって、怪我なんかしませんでしたから」
今まさに作り直した顔だというのに、その縋るような、諭すような、悲哀を湛えた表情に根負けてしまいそうで、わたしは努めて床だけを見るようにした。
彼にとっては、わたしを思い通りに操ることなど、赤子をあやすに等しいのだ。
雰囲気に流されてはいけない。これもまた、作戦の内なのだから――