『変身』
目を閉じた。すると子供の頃、親に隠れて入った物置小屋の臭いがしたような気がした。これでそのうちに目が覚めるかも知れないと思った。夢が自然に覚めるように、ある時が来ればまた現実に戻る。わたしは縁側の縁にかけた手をゆっくりと開いてみた。動いた。それは肉体から抜けた霊体のような感覚だった。かっぱとしての身体だ。そしてそのまま隣でいるであろう人の肩に腕を回そうと探った。確かな感覚で存在があった。ただし力は抜いている。シャボン玉を包むようなつもりで。目はまだ開けない。わたしは聞こえない耳と話せない口と動かない身体で、いま隣の存在に触れている。それは触れていると言えるのかどうか。相手の中にいる「かっぱ」にわたしは触れているのか。わたしは想像した。禅宗の枯山水の庭の縁側で、かっぱが二人並んで、じっと正面を向いて黙っている「絵」を想像した。そして、このまま、額縁に囲まれて、ほんとうに絵になってしまえばいいのにと思った。そのうちに、手足の感覚が消えていった。身体の重心がお尻のあたりでぐっと落ち着いた。手足がなくなったお蔭で全身がすっきりした気がした。目は閉じていたが、暗いと言うよりも真白く広がっていた。目の前にある白砂の世界のようにどこまでも白く果てに消えていた。わたしたちはきっと「だるま」になったのだろう。「かっぱ」はいつの間にか「だるま」になった。きっと、変身したかったのだ。わたしではなく、わたしの中の「かっぱ」が。きっと、隣の彼女も。
(了)