紺碧塔物語
「八戦聖? 兄ちゃんさ、わかるように話してくんない? わざとパニクらせようとしてるでしょ」
「そういうわけじゃないよ」
答えが嘘ではないことは、妹であるテンポは嫌と言う程知ってはいるのだが。それでも兄の言葉には混乱すべき要素しかない。
大陸八戦聖とは、騎士位の最高序列者達の総称だ。貴族級の特権を有し、王位に対する選挙権を持つ。単純に個人の戦闘能力を特化させただけでそこまでの身分を保障されているということが、何より彼らの人間離れした力を証明していた──事実彼らは戦争状態となれば兵卒というよりは兵器のような扱いを受けることが多い。ただ一騎で戦況を変化させ得る、強力無比な兵器。
その一人が、こんな辺境地に何の用があるというのか。それこそ素行不良で課外活動を命じられたわけでもあるまいし、その所在を常に明確にすることが義務づけられている八戦聖が無駄足を運びに来たとも考えにくい。
「前に、学園祭で見たことがある。《無血将軍》だよ。ゼロハード。彼が来てた」
「ゼロハードって……そんな話、あのエルフ達はしてなかったけど」
「あのエルフっていうのがどいつらのことか、僕は知らないけどさ。僕が見た連中は、普通に素通りさせてたよ。契約がどうとか話してたから、最初っから話はついてたのかもしれないけどさ。それより──テンポ、僕達、帰った方がいいんじゃない?」
今日の夕飯は焼き魚がいいな、という程度の強さで、レガートが言ってくる。
「もう用事もないし。イド先生にも帰投報告しちゃったしさ。ヒサルク教室と揉めたって話してたけど……そういうの、テンポが何とかしなきゃいけないんじゃないの」
「教室間の揉め事まで私の仕事にしないでよ。先生が何とかするでしょ」
だが、帰る理由ができたのは確かだ。教室間の私闘は固く禁じられているが、だからといって互いに競争意識が成立しないわけでもない。むしろ騎士叙勲を目指す連中などというのは揃って上昇志向が強く、他人を蹴落としてでも自分は這い上がろうという気概の持ち主が多いのだ。どうやら直接的な被害に遭ったらしいホウメイには悪いが、課外活動を早めに切り上げる理由をくれたという意味では、あのいけ好かないヒサルク教室の連中に感謝してやってもいいぐらいだった。
──ホウメイには、公開試技の結果で機嫌を直して貰えばいいし。
自分と兄が出場しなかったとしても、イオニス達がいれば試合には勝てるだろう。
「……ていうか、ホウメイ本人がやり返せばいいだけのことだし」
決して無理な話ではない。普段は実力を隠しているものの、現時点でイド教師の能力を最も色濃く受け継いでいるのはホウメイだ。テンポと同じ、近接武技教員の資格もとれるはずなのだが、決して彼女は試験を受けようとはしなかった。何らかの事情があるのかもしれないし、単純に面倒臭がりなだけなのかもしれない。どちらだったにせよ、彼女ならばヒサルク教室の面々を相手にしても後れを取るようなことはないだろう。
「まあ、どっちにしろ私達は戦力外だろうしね」
面倒事が嫌いなのはテンポも同じだった。兄程極端ではないというだけで、忌々しいことに血の繋がりを感じさせる性格だと自覚はしている。
帰るなら早くしようと急かす兄の後ろについて、テンポはゆっくりと歩き出す。
ぐずぐず森の中で悩んでいたが、帰ると決めれば一瞬だった。喜びも感慨もなく、ただそうと決めること。それだけが両足を実際に動かす活力になる。
冷めた月に見下ろされ、互いに重なり合って崩落した木々の隙間を歩きながら──テンポは、帰った後に教育主任がどんな嫌味を言ってくるのか、それだけが気がかりだった。他に気にすべきことはない。
八戦聖のことも、エルフ達のことも、この森のことも。
きっと自分の人生には無関係であることを、期待すらしているのだから。