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かいかた・まさし
かいかた・まさし
novelistID. 37654
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失敗の歴史を総括する小説

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「ところで、君の先輩である大西さんのことだが、彼は網走から広島に移送された。広島では囚人としては特別待遇を受けることになっている。だから、もう心配することはない」
 近衛首相は言った。
「閣下、私は大西氏のことで、今度の任務を引き受けたわけではありません。この国の危機を救いたいからです。そのことは誤解なさらないでください」
 龍一は、身を引き締め言った。大西氏のことはきっかけに過ぎない、自分の心の底にあった愛国心が、ここにきて思いっきり表に出たことを自覚していた。
「ことは急を要する。私は、来月にも東亜新秩序という構想を発表するよう迫られている。東アジア全体を共栄圏とする構想だ。そんなものをまともに出せば、軍部の占領拡大を後押しするようなものだ。その軍部を説得させるためには、国民党政府との和平が必要だ。中国が、この事態に甘んじて、これ以上戦線を拡大させる口実を持たせないようにすべきだ」
 近衛首相がそう言うと
「それならば、私を今一度、上海に戻してください。何とか隠密理に国民党幹部と接触して、和平に持ち込ませるよう尽力します」
と龍一は、言い切った。できなくてもしなければと、言い聞かせた。

 その頃、広島では、網走から列車に揺られること丸二日を経て、大西哲夫氏が、小さな民家に到着した。二日間、両脇を特高警察に挟まれ監視されながらの移動であった。新しい刑務所は、民家である。広島市のやや郊外に位置するその民家は一人住まい用の木造の一階建ての家で六畳と四畳半と台所・便所、その上風呂もついている。外には、菜園が作れるほどの庭もある。
 自分は無罪放免になったのかと勘違いするほどの境遇の変わり様であったが、すぐにそれが民家を使った自分専用の独房であることを悟った。民家の周りは警察関係者の住まいが立ち並ぶ地帯だ。
 大西は、日々監視をつけられた生活を強いられる。毎日、必ず特高のものが民家を訪れ、大西の様子を見る。外に出ることは、許されない。食事は毎日提供されるものの、同時に庭に菜園を作り、野菜を生育する作業を日課とする。書物はいっさい提供されない。また、筆や紙なども提供されず、何も書き記すことが許されない。文筆作業を許されず、ものを考えることは禁じられているも同然だ。
 大西が接して話しをするのは、特高の監視員だけである。だが、大西は、安堵感をとりあえず感じた。網走での極寒生活と強制労働は、五十にもなる大西には限界であった。命の危機を何度もくぐり抜ける生活からとりあえず脱せた今の状況を喜ばざる得なかった。そして、何よりも嬉しかったことは、この移送が、あの龍一の手はずによるものであることを知ったからだ。
 特高の警官から、広島への移送時に、ある手紙を列車の中で読まされた。白川龍一からの手紙であった。たった一枚の手紙に短くこう書かれてあった。
「大西さん いろいろと言いたいことがあるでしょう。ですが今は耐える時です。いずれこの状況は変わります。変えて見せます。 白川」
 大西は、龍一を信じた。

 龍一は、キャセイ・ホテルのロビーにいた。上海きっての高級ホテルだ。ソファに座り、そこである人物、または、その人物の使いの人物に会う手はずとなっている。
 予定では、午後1時に会うはずだったが、すでに午後3時を過ぎている。さぞ忙しい人物だから、遅れるのもやむ得ないと考えてはいたが、とりあえずは、この面会のお膳立てをしてくれたはずの中国人と連絡を取ろうと考えた。彼は海運業を営んでおり、貿易商時代、取引があった。彼によると、彼は蒋介石の秘書、河正浩氏と長年来の友人だということだ。河氏と面会し、その上で蒋介石と直接交渉する機会を得ようと考えていた。そのために千円という高額の金を海運業者に渡し、手はずを整えて貰うつもりだったが、どうやら彼を信用し過ぎてしまったのかもしれない。
 ロビーの隅の電話のあるところに行こうと立ち上がった。隅に向かうと、そこで葉巻を持った見覚えのある男に会った。

「また、あんたか、チャーリー」
 龍一は英語で嫌みたっぷりに言った。
「またお会いできて光栄だよ」
「ずっと私をつけていたのか」
「いやね、君が今日ここにいるだろうって情報を仕入れてね。私はこれでも情報通だからね。何でもお見通しだろう」
 チャーリーは、得意の笑みを浮かべる。龍一は苦笑いで返し
「残念だが、私が近衛総理の補佐をすることなど容易に予想できたことだ。私は、記者の時代から近衛氏とはつきあいがある。その程度で情報通を気取るのはよして欲しい」
と言った。相手に自分がひるんでいる様子など見せてはならないと思った。とりあえず、ここから電話をかけるのはよそうと思い、龍一は、チャーリーに背を向けた。
「ミスター河は、同じ中国人の言うことよりも、アメリカ人の私の話に耳を傾けてくれたよ」
 チャーリーは、龍一を引き留めるように言った。龍一は、はっとした。
「一体何の話しをしているのか」
 隙を作ってつけこまれてははならないと、振り向かずそう言った。
「蒋介石と会いたいのだろう。会いたければ上海ではなく、蘇州に行くといい」
 チャーリーは続ける。龍一は、振り向いて言った。
「蘇州に蒋介石がいるのか、くだらない、そんなのデマだ」
「デマであるかは、明日の午後五時に拙政亭に行き確かめてみればいい」
とチャーリーは言い、手元にあった葉巻を電話のそばの灰皿にそっと置くと立ち去っていった。龍一は、チャーリーが玄関から出ていく姿をじっと眺めた。
 このチャーリーという男は何者だ。自分のことをいろいろと調べ上げているみたいだ。彼が言うには、国民党政府と親しいらしい。だとしたら、アメリカ政府や軍部の回し者だと考えられる。アメリカは、日中間の戦争では非難をしながらも、軍事的には中立を装っている。だが、その一方で、国民党軍には武器の供与を影で行っている。
 チャーリーがアメリカ政府や軍部の回し者であるとするならば、「蘇州に行くといい」という話しは罠である可能性が高い。何を企んでいるのか分からない。どんな風に自分を利用するつもりなのか考えると危ない。
 龍一は、そう思いキャセイ・ホテルを後にした。 
 
 翌日、龍一は自動車を運転すること三時間をかけ、蘇州に着いた。正午に上海を出て、今は午後三時だ。龍一は拙政園から歩いて三十分ぐらい離れたところに車を停め周囲を見回しながら車を出た。この三時間ずっとつけられていないか注意しながら運転していた。途中で、わざといろいろな脇道に入り、尾行がないかを確認した。どうやらつけられていないと思われる。
 予定の午後五時より早めに着き、こっそりと様子を探ろうと思った。待ち受けている相手よりも先んじて目的地に着き、様子をうかがおうという考えだ。
 これから、三十分ほど歩き拙政亭という蘇州では有名な料亭に向かう。丁度、車を停めた場所の近くを流れるクリーク沿いに真っ直ぐ歩いていけば、拙政亭に着けるはずだ。貿易商時代、何度か行ったことがあるのでよく知っている。
 歩きながら、龍一は、蒋介石という男について知っている限りの知識を思い返していた。