失敗の歴史を総括する小説
「ああ、久しぶりだ。元気していたか。そうか、君は近衛家の嫡男、隆文君だ。しっかり覚えているよ。もうプリンストン大学は卒業したのかい」
龍一は、思わぬ人物との思わぬ再会に感激した。
「はい、今は日本に戻って父の秘書をしています」
父とは、内閣総理大臣の近衛文麻呂のことだ。
「しかし、どうして上海に」
と龍一がきくと
「あなたに会いに来るためです」
と隆文は言った。
「何だって?」
「ここでは何ですから、アスターホテルに行きましょう。今はそこに宿泊しています」
アスターホテルの窓からは、バンド全体の風景が眺められた。行き交う船、石造りの建物が整然と並ぶ姿など。
今、龍一と隆文がいるホテルの一室が情報機関の仕事場になっているようだ。
隆文は、ソファに座る龍一にお茶を差し出し、淡々と話を始めた。
「今、日本と中国は泥沼の戦闘状態に入っています。もう両国だけの問題ではなく、この大陸に利権を持つ欧米、とりわけアメリカとの関係が悪化していっています。近い内、衝突は避けられないでしょう」
龍一は、日本から持ってきたらしい緑茶をぐいっと飲んだ。隆文は話を続ける。
「アメリカにいた時は、非常に辛かったです。日に日に反日感情が増していき、あのルーズベルト大統領も日本を文明社会を脅かす存在だと演説しましたから。日本は平和を乱す人道の敵だと人々は呼んでいます。日本製品のボイコットなんかが起こってますし、新聞では日本軍にどれだけの中国人が殺されたかなど連日のように書かれています」
隆文の表情は、その辛い体験を表すかのように険しくなっていった。
「特に南京ではひどいことをしたようですね。捕虜や女性、子供を虐殺して、僕は友人から、ひどいことを言われました。日本人であることがまるで獣であるかのようにも思えてきました」
龍一は、ソファから立ち上がった。思い出したくないことが、また激しく脳裏によぎる。何も言わず立ち去ろうとした。
「白川さん、お願いです。父があなたを必要としています。日本に来てくれますか。総理である父の補佐となっていただけますか。そのことを頼みに上海まで来たのです」
隆文が呼び止めるように言う。
「そんなことを突然言われても、私が君のお父さん、総理である近衛閣下の補佐になれなど、とんでもないことを、私など何の役にも立たないよ」
龍一は、同じような台詞を五ヶ月前ほどに誰かに言っていたことを思い出した。
「あなたは、中国状勢に詳しい方です。また、新聞記者として欧米にもいらしていました。中国や世界情勢を分析する能力は大変優れています。いろいろな人脈もおありでいらっしゃいます。父もあなたのことをとても信頼しています。あなたなら、父を救え、父を説き伏せることが出来ると思います。父は今、大変な苦境にさらされています。軍部の暴走をいかにして止められるかが大きな重責としてのしかかっています。どうか助けてください」
と隆文は、まるで龍一の体に釘を打ち込むような勢いで話した。
「君とお父様、閣下の気持ちはよく分かったよ。だけど、私にも事情があって、どうしても、そんな大それた仕事は引き受けられないんだ。もっとふさわしい人を見つけてくれないか」
龍一は、跳ね返すように言い返した。
「白川さん、大西哲夫さんという方をご存知ですよね」
はっと思わぬ人物の名が、隆文から放たれた。龍一は沈黙した。
「元先輩でいらして、治安維持法で投獄され、今は網走刑務所にいます」
「網走」という地名を聞いてさらにはっとした。北海道の極寒の地にある刑務所だ。
「何だって、どうしてそんなところに」
思わず、口が動くのが止められなかった。
「大西氏は、政治犯の中でも札付きの存在ですから。かなり過酷な状態に置かれて、健康状態もかなりひどいと聞いています」
と隆文は淡々と話す。龍一は目から涙がこぼれそうになったが、隆文の前ではみっともないと思い必死に押さえた。
「今の父は、総理です。何なら大西氏をもっとましな状態におくこともできますよ」
と淡々と続けて言った。
何としたたかな、と龍一は隆文を見つめながら思った。
一九三八年十月 東京
龍一は、首相官邸の執務室にいた。ソファに座って近衛文麻呂内閣総理大臣と見つめ合っていた。
六年ぶりの再会であったが、そのことに特別な感情はないという認識をお互い共有していた。龍一は、帰国と同時に総理の補佐官という任務に就くことになったのである。以前のような新聞記者としての中立的な立場とは大違いである。
近衛首相の面持ちは、がらりと変わっていた。以前に比べはるかに頬がこわばり顔に緊張感がみなぎっている。その緊張感は、六年ぶりに帰った首都東京の様子と同様であった。
街には、「挙国一致」というスローガンを掲げた登りがはためき、戦時下であることをもろに感じさせる。また、ヒトラー率いるナチスドイツの鍵十字の旗が日の丸と一緒に並べられ風に吹かれ波打つ姿も見られた。狂気な世界が包みこむような感じであった。
挙国一致の元、国会では「国家総動員法」が成立し、戦時下で物資、人員が国家、つまりのところ軍部によって自由に動かせ、また、言論は統制の対象となる。
だが、大衆は横暴な軍部を支持しているようだ。新聞の連戦連勝報道は、売れ行き好調で、ますます煽り立てられている。
軍部が、なぜこうまでも政治を動かせるのか、それは帝国憲法第十一条の「天皇は陸海軍を統帥す」という条文を盾にした権力の独立性を根拠としているからだ。つまりは政府の不拡大方針などに軍部は従わなくともいいという考えである。
だが、「勅令」という名で天皇が何か命令を発する時は、国務大臣の輔弼(助言)が必要となることが同憲法第五十五条で規定されている。天皇の統帥権は、国務大臣、つまり政府で決まったことに裏打ちされなければならない。それは明治維新からの慣例とされ、天皇は国家の元首でありながら、実際的な権限を行使することは滅多にないという「君臨すれど統治せず」という国民統合の象徴として存在する概念を基にしている。
だが、軍部は満州事変以来、この統帥権の独立をことある毎に持ち出し、また、内閣には組閣の時、陸海軍省から後任の大臣を出さないという嫌がらせを起こし、圧力をかけることもしばしばであった。軍部にとっては、内閣がそのことで解散になっても構わないのである。なぜなら、解散によって予算案が通らなければ自動的に前年の予算が、そのままその年度の軍の予算として成立する仕組みになっているからだ。
藩閥政治の名残から政府による軍部の統制は、時にやりにくくなる制度的な欠陥が、ここに来て悪用されている。
だからこそ、近衛首相は、当初から軍部との妥協を余儀なくされた。濾溝橋事件から、軍部の中国大陸への進軍も、その後の拡大も近衛総理は容認してきた。
実際のところ、政府は何度も中国国民党政府に和平案を持ちかけ、歯止めをかけようとしたが軍部の強硬な姿勢と蒋介石率いる国民党政府のかたくなな対抗姿勢により、失敗に終わっている。何としても和平により、事態の悪化に歯止めをかけたい。それが、近衛総理の願いであった。
作品名:失敗の歴史を総括する小説 作家名:かいかた・まさし