IM (Invisible man)
「っ……」
声にならない声が、僕の口からかすかに漏れた。
青信号とともに動き出したゴミのように行き交う人並みに紛れ、僕のつま先に痛みだけが残っている。
その主は謝りもせず、僕の足を踏んだということもわからないかのように、その姿をすでに遠くに移していた。
「……」
僕は透明人間である。みんな僕のことを見えてはいないようだ。
そう思いながら、僕は無言のまま点滅し始めた信号を渡りきると、その先に見える学校へと入っていく。
「おはよう」
何度もそんな声を聞いたが、僕にかけられるものではない。まして僕から言うこともない。
今日も僕は無言のまま、指定された教室の指定された席に座り、誰からもかかることのない携帯電話を手にすると、ただそれを眺めていた。
周りではしゃぐ同級生たちの中で、きっと僕は浮いている存在なんだろう。でも僕は、いじめられているわけでも、ハブられているわけでもない。まして僕を話題にする人もいない。
だって僕は、透明人間なのだから――。
プログラムされたロボットのように、僕はただ学校で勉強をし、可もなく不可もない成績を積み上げる。
高校に入ってから友達もいないのは、作ろうとしなかっただけではなく、ここには中学が同じ生徒などほとんど存在しない。
「うわー。誰かティッシュない? 鼻血出た」
近くでそんな声が聞こえ、僕は振り返るものかと身を固める。
「ハハハ。小学生かよ。何もしてないのに鼻血って」
「しょーがねえだろ。出ちゃったもんは」
「やべえ。すげえ量じゃん」
そんな会話が聞こえただけで、血の匂いがした気がした。
僕は気分が悪くなり、席を立ち上がる。
しばらくトイレにでも行こうと思った瞬間、机の上に飛び散った血が目に飛び込み、僕は一気に青ざめた。
「あ……ああー!」
突然、発狂したように、僕はそう言って教室を飛び出した。
同級生たちが目を丸くしているのが見え、やっと僕は自分が透明人間ではないことを知る。だがそれを感じる原因が、この異常行動だということを、僕自身もはっきりとわかっていた。
「三島君」
目の前にいる白衣の女性にそう呼ばれたが、僕は目をうつろにさせるだけで、返事をしなかった。
「三島千秋(みしまちあき)君。大丈夫?」
そこまで言われて、僕は頷いた。
「はい……大丈夫です」
名前を呼ばれたのも、会話をするのも久しぶりで、僕は蚊の鳴くような声でそう言った。
ふと視線を逸らすと、そこは保健室の中。何度かここには来ているから、この保健室の先生も顔見知りである。
「カウンセリング……受けてないの?」
先生の言葉に、僕は途端に表情を失くした。
「……はい」
「嫌なのはどうして? 前は受けていたんでしょう?」
「……」
「……嫌なら言わなくてもいいけれど……」
大人たちは腫れ物にでも触れるかのように、僕を持て余している。
頭の中に複雑な感情が流れていて、僕は途端に思考を停止させる。
「……意味がないから」
「え?」
「お世話になりました……」
そう言って、僕は保健室から出て行った。
教室に戻ると、もう放課後のホームルームの時間である。
僕を見るなり、同級生たちは好奇の目で噂話をする。
「やっぱりあいつ、異常だよ」
「血見ただけで絶叫って、どんだけ弱いんだよ」
「あいつとは関わらないほうがいい」
そんな声が聞こえたが、僕はもう気にならないほど経験していることである。
難しいことや深いことを考えたくない。僕は自分の思考を完全にコントロールするかのように、頭の中を真っ白にし、気配を消した。
学校が終わるなり、何の部活にも所属していない僕は、そのまま自宅へと帰る。学校から歩いて二十分くらいの場所にあるそのマンションは、どれだけ待っても人が帰ってくることはない。
だがその日、部屋のドアを開けるなり、リビングに人影があった。
「誰だ!」
思わずそう言った先に、制服姿の女子高生が立っている。
「美幸(みゆき)……」
「おかえり。早かったね。私も今、来たところ」
「……」
それを聞いたところで、僕は少女の腕を掴み、玄関へと押しやった。
「勝手に入るな!」
そんな大声を出したのは久しぶりである。
だが僕の言葉を聞いて、少女の顔も怒りに満ちた。
「ここは私の家でもあるわ!」
「僕の家だ!」
「親同士が再婚したんだもん。私の家でもあるわよ」
「その親も、もういないだろ!」
にらみ合いが続いたが、あまりに真剣な顔の少女を見ていられず、僕は顔を背けた。それだけで負けた気がして、僕はため息をつく。
「……勝手にしろよ」
そう言って、僕は自分の部屋へと入り、部屋の鍵を閉めた。
一人っ子だった僕が小学四年生の時、父親が再婚した。母親は僕が生まれてすぐに死んだというから、初めて母親が出来てちょっと嬉しかったのを覚えている。
だが、新しい母親には連れ子がいた。七歳年上の長女・麻里と、一歳年上の次女・美幸。
一人っ子で人見知りの僕を、新しい姉二人はよく面倒を見てくれたし、僕も好きだった。年が近いこともあり、美幸のことは呼び捨てで、麻里のことは麻里ねえと呼んでいる。
「千秋」
その時、ドアがノックされた。
「突然来てごめんね。千秋がまた発作を起こしたって聞いて、様子を見に来たの」
美幸の言葉に、僕は黙ったまま怒りを募らせる。
長女の麻里は社会人として働いている。別々に暮らしていても、連絡が入るのは一番上の姉。そして姉から美幸に連絡がいったのだろう。
「ねえ、千秋……私だって時々、狂いそうになる。でも友達が慰めてくれたり、お姉ちゃんがいるから支え合ってる。私も千秋のそういう存在でいたいよ。私たち、姉弟じゃない」
僕は返事をせず、耳を塞いでいた。
二年前、中学三年生の夏――。
記録的猛暑日だったその日、僕の受験前の疲れを癒すため、家族でレストランに行く予定だった。
再婚した僕らの家族は、そういう家族行事を大切にしていたから、その日もまあまあ楽しみで、学校から帰った姉たちと三人で、制服から私服に着替え、指定されたレストランへと向かっていった。
両親は共働きだったから、仕事帰りに合流して直接店へ向かう手筈になっている。
「私、ちゃんとしたイタリアン食べるの初めて」
レストランに向かう途中、美幸がそう言ったので、僕は自慢げに笑った。
「僕は何度も行ってる」
というのも、今日行く店は父の友人が経営している店で、子供の頃からよく行っているのだ。
「なによ。お父さんのお友達のお店だからでしょ」
「まあまあ。二人とも。喧嘩しないの」
軽くあしらう長女の麻里に、僕と美幸は互いに舌を見せ合い変顔で対抗した。
僕らは、そんな仲の良い姉弟だった。そう、その日までは――。
「あれ、お母さんたちじゃない?」
麻里の言葉に、僕は顔を上げる。すると、スクランブル交差点の向こう側に、両親の姿がある。
「本当だ。おーい!」
僕らが手を振ると、両親も気付いて手を振る。
その時――突然、猛スピードのスポーツカーが横切ったかと思うと、歩道へと乗り上げ勢いよく止まった。
誰もが目の前で起こっている事実を理解出来なかった。
「キャー!」
声にならない声が、僕の口からかすかに漏れた。
青信号とともに動き出したゴミのように行き交う人並みに紛れ、僕のつま先に痛みだけが残っている。
その主は謝りもせず、僕の足を踏んだということもわからないかのように、その姿をすでに遠くに移していた。
「……」
僕は透明人間である。みんな僕のことを見えてはいないようだ。
そう思いながら、僕は無言のまま点滅し始めた信号を渡りきると、その先に見える学校へと入っていく。
「おはよう」
何度もそんな声を聞いたが、僕にかけられるものではない。まして僕から言うこともない。
今日も僕は無言のまま、指定された教室の指定された席に座り、誰からもかかることのない携帯電話を手にすると、ただそれを眺めていた。
周りではしゃぐ同級生たちの中で、きっと僕は浮いている存在なんだろう。でも僕は、いじめられているわけでも、ハブられているわけでもない。まして僕を話題にする人もいない。
だって僕は、透明人間なのだから――。
プログラムされたロボットのように、僕はただ学校で勉強をし、可もなく不可もない成績を積み上げる。
高校に入ってから友達もいないのは、作ろうとしなかっただけではなく、ここには中学が同じ生徒などほとんど存在しない。
「うわー。誰かティッシュない? 鼻血出た」
近くでそんな声が聞こえ、僕は振り返るものかと身を固める。
「ハハハ。小学生かよ。何もしてないのに鼻血って」
「しょーがねえだろ。出ちゃったもんは」
「やべえ。すげえ量じゃん」
そんな会話が聞こえただけで、血の匂いがした気がした。
僕は気分が悪くなり、席を立ち上がる。
しばらくトイレにでも行こうと思った瞬間、机の上に飛び散った血が目に飛び込み、僕は一気に青ざめた。
「あ……ああー!」
突然、発狂したように、僕はそう言って教室を飛び出した。
同級生たちが目を丸くしているのが見え、やっと僕は自分が透明人間ではないことを知る。だがそれを感じる原因が、この異常行動だということを、僕自身もはっきりとわかっていた。
「三島君」
目の前にいる白衣の女性にそう呼ばれたが、僕は目をうつろにさせるだけで、返事をしなかった。
「三島千秋(みしまちあき)君。大丈夫?」
そこまで言われて、僕は頷いた。
「はい……大丈夫です」
名前を呼ばれたのも、会話をするのも久しぶりで、僕は蚊の鳴くような声でそう言った。
ふと視線を逸らすと、そこは保健室の中。何度かここには来ているから、この保健室の先生も顔見知りである。
「カウンセリング……受けてないの?」
先生の言葉に、僕は途端に表情を失くした。
「……はい」
「嫌なのはどうして? 前は受けていたんでしょう?」
「……」
「……嫌なら言わなくてもいいけれど……」
大人たちは腫れ物にでも触れるかのように、僕を持て余している。
頭の中に複雑な感情が流れていて、僕は途端に思考を停止させる。
「……意味がないから」
「え?」
「お世話になりました……」
そう言って、僕は保健室から出て行った。
教室に戻ると、もう放課後のホームルームの時間である。
僕を見るなり、同級生たちは好奇の目で噂話をする。
「やっぱりあいつ、異常だよ」
「血見ただけで絶叫って、どんだけ弱いんだよ」
「あいつとは関わらないほうがいい」
そんな声が聞こえたが、僕はもう気にならないほど経験していることである。
難しいことや深いことを考えたくない。僕は自分の思考を完全にコントロールするかのように、頭の中を真っ白にし、気配を消した。
学校が終わるなり、何の部活にも所属していない僕は、そのまま自宅へと帰る。学校から歩いて二十分くらいの場所にあるそのマンションは、どれだけ待っても人が帰ってくることはない。
だがその日、部屋のドアを開けるなり、リビングに人影があった。
「誰だ!」
思わずそう言った先に、制服姿の女子高生が立っている。
「美幸(みゆき)……」
「おかえり。早かったね。私も今、来たところ」
「……」
それを聞いたところで、僕は少女の腕を掴み、玄関へと押しやった。
「勝手に入るな!」
そんな大声を出したのは久しぶりである。
だが僕の言葉を聞いて、少女の顔も怒りに満ちた。
「ここは私の家でもあるわ!」
「僕の家だ!」
「親同士が再婚したんだもん。私の家でもあるわよ」
「その親も、もういないだろ!」
にらみ合いが続いたが、あまりに真剣な顔の少女を見ていられず、僕は顔を背けた。それだけで負けた気がして、僕はため息をつく。
「……勝手にしろよ」
そう言って、僕は自分の部屋へと入り、部屋の鍵を閉めた。
一人っ子だった僕が小学四年生の時、父親が再婚した。母親は僕が生まれてすぐに死んだというから、初めて母親が出来てちょっと嬉しかったのを覚えている。
だが、新しい母親には連れ子がいた。七歳年上の長女・麻里と、一歳年上の次女・美幸。
一人っ子で人見知りの僕を、新しい姉二人はよく面倒を見てくれたし、僕も好きだった。年が近いこともあり、美幸のことは呼び捨てで、麻里のことは麻里ねえと呼んでいる。
「千秋」
その時、ドアがノックされた。
「突然来てごめんね。千秋がまた発作を起こしたって聞いて、様子を見に来たの」
美幸の言葉に、僕は黙ったまま怒りを募らせる。
長女の麻里は社会人として働いている。別々に暮らしていても、連絡が入るのは一番上の姉。そして姉から美幸に連絡がいったのだろう。
「ねえ、千秋……私だって時々、狂いそうになる。でも友達が慰めてくれたり、お姉ちゃんがいるから支え合ってる。私も千秋のそういう存在でいたいよ。私たち、姉弟じゃない」
僕は返事をせず、耳を塞いでいた。
二年前、中学三年生の夏――。
記録的猛暑日だったその日、僕の受験前の疲れを癒すため、家族でレストランに行く予定だった。
再婚した僕らの家族は、そういう家族行事を大切にしていたから、その日もまあまあ楽しみで、学校から帰った姉たちと三人で、制服から私服に着替え、指定されたレストランへと向かっていった。
両親は共働きだったから、仕事帰りに合流して直接店へ向かう手筈になっている。
「私、ちゃんとしたイタリアン食べるの初めて」
レストランに向かう途中、美幸がそう言ったので、僕は自慢げに笑った。
「僕は何度も行ってる」
というのも、今日行く店は父の友人が経営している店で、子供の頃からよく行っているのだ。
「なによ。お父さんのお友達のお店だからでしょ」
「まあまあ。二人とも。喧嘩しないの」
軽くあしらう長女の麻里に、僕と美幸は互いに舌を見せ合い変顔で対抗した。
僕らは、そんな仲の良い姉弟だった。そう、その日までは――。
「あれ、お母さんたちじゃない?」
麻里の言葉に、僕は顔を上げる。すると、スクランブル交差点の向こう側に、両親の姿がある。
「本当だ。おーい!」
僕らが手を振ると、両親も気付いて手を振る。
その時――突然、猛スピードのスポーツカーが横切ったかと思うと、歩道へと乗り上げ勢いよく止まった。
誰もが目の前で起こっている事実を理解出来なかった。
「キャー!」
作品名:IM (Invisible man) 作家名:あいる.華音