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幼年記

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幼稚園の年長の頃、ピアノの教師をしている母親が楽譜を買いに行くと言うので、駅前の楽器屋へついて行った。
壁際の書棚にびしりと並ぶ楽譜の列から一つを取り出し、裏を返したり、中をぱらぱらめくったりなど検分しては元へ戻して次のを取り出す、そんなことを繰り返しながら一つ一つゆっくりと選んでいくのを、はじめは脇から興味深く見物していたけれども、そのうちすっかり退屈してきた。

それでピアノやオルガンの並ぶ中央の広い場所を抜け、レジの近くまで歩いて来たら、小さな棚があった。
棚にはハーモニカや卓上カレンダーや楽譜を模様としてあしらった鉛筆、消しゴムなどが並んでいた。
脇の壁にはフックがいくつも打たれて音符の形をしたキーホルダーの、少しずつ形や色の違うのが、並んでかかっている。
それらを一つ一つ眺めていると、いつの間にやら私と同じくらいの年の、髪の長い女の子が傍らに立っていた。
見たこともない子だけれど、傍らからこちらを覗き込むその目つきは、他人のようではない。
同級の友達か、あるいは姉弟のような慣れ慣れとした目である。
その目に見られているうちに、こちらの方でも他人のような気がしなくなってきた。
手に何か持っているので見ると、壁にかかっているのと同じ、音符の形のキーホルダーである。
何か喋ろうと思って、姉に対するのと同じような気持ちで、
「それどうしたの」
と訊くと、
「買ってもらったのよ」
と答えた。
「お母さんに言えば、買ってもらえるよ」
そう言ってそのキーホルダーを慣れた手つきで両側から引っ張った。
キーホルダーは真ん中から二つに分離して、組替えるとボールペンになった。
大したものだと思って、壁にかかっているのから一つ拝借して、見よう見まねで試してみたら、やっぱり同じようにボールペンになった。
女の子がそれを見てにっこり笑った。
するとにわかにそのキーホルダーが欲しくなった。
ちょうど母親が、選び終えた数冊の楽譜を持ってレジの方まで歩いて来たから、何とかかんとか無理を言って、買ってもらった。
大変満足して振り返ると、女の子はキーホルダーを握ったまま、一人でついと外へ出て行くところだった。

キーホルダーは、家に持ち帰ってから何度かボールペンにしたり、戻したりしてみたけれど、店で試した時ほど面白くはなかった。
その上、握り辛くてボールペンとしてはとてもではないが使えない。
それで処置に困って、机の引出しへ放り込んでおいたら、その年の大掃除の際、どこぞへ紛れて、それきり見なくなった。
作品名:幼年記 作家名:水無瀬