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幼年記

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幼稚園に通っていた時、ある日園庭のブランコを揺らさずに登った者がある。
揺らす時につかむ両脇の吊り鎖のうちの片方へ、両手両足をかけて、猿のように器用に上まで行ったと思ったら、手を離して座り板の上へすとんと着地した。
すると皆がこぞって真似をし出した。
誰でもできるというわけではないらしい。
大抵の者は半分も行かないうちに力尽きて降りてくる。
なかなか上まで行ける者はない。
最初に登った者は大いに得意になり、登り方の秘訣を講義したり、皆が円滑に挑戦できるよう一人の持ち時間や並び方の管理に当たったりしていた。

なんだか癪だから、私はわざとブランコには近づかないようにしていたのだけれど、あまりに皆が夢中になってやっているので、やはり少しは気になってきた。
それで一度だけでもやってみようかと思うのだけれど、もしうまくできなかったら、並んだ上に恥をかくのだから、不都合だ。
どうにか人のいない折を狙ってやりたい。
その時にもし首尾よく上まで登れれば、次からは並んで待ちもしようと考えた。
しかしブランコは、朝から夕方まで埋まっていて、なかなか空かない。
そこをどうにか、うまいこと空かないものかと思いながら何日か観察していると、お弁当の時間の前後だけは、わずかの間ながら空くことが分かった。

これだと思ってさっそく次の日にお弁当を大急ぎで食べて、庭へ出たら、狙った通りに誰もいない。
座り板の上に立ち、皆のしているように片方の鎖を両手で持って、力を入れて下へ引っ張ると、体がぐいと浮いた。
いけると思ってそのまま両足を鎖に絡め、尺取虫のようにぐいぐいと登り出した。
鎖の凹凸に体が引っかかるので存外登りやすい。
調子に乗って一気に半ば近くまで登った。

そこでいったん休憩して、これならば上まで行くのも訳はないと満足しながら、周りの風景を見回すと、そろそろ弁当を食べ終わった他の園児が一人二人くらいは出てきても良い頃合いなのに、庭には依然誰もいない。
それどころか、庭に面した廊下に並んでいる教室のどれにも、人の気配はなく、扉を閉め切って静まり返っている。
あれと思ったとたんに手が緩み、鎖の上をずるずる滑って座り板の上へ尻を打ちつけた。
一瞬息が詰まったけれど、歯を食いしばって地面に降り、急いで自分の教室へ戻ると、やはり誰もいない。
そんなことはないと思いながら、あらためて廊下沿いに一つ一つ教室を点検したけれど、どこにも人の影はない。

それでどうしようかと途方に暮れて、園舎の外れまで来ると、離れになっている体育館の中から、大勢の拍手の音が漏れてきた。
何かと思って入口から首を突っ込むと、中は真っ暗で、たくさんの生き物のひしめく気配だけが鼻先に感じられる。
その時不意に誰かが中から出てきて、私を外へ連れ出した。
見れば担任の先生である。
これから映画の鑑賞会をやるから皆で体育館に集まっているのだと言う。
映画を見ながら食べるためのお菓子を配っているのだが、もうもらったかと聞くから、もらわないと答えると、じゃあこれと言って前掛けのポケットから飴を一握り掴んで、こちらへ差し出した。
それを受け取ろうとしたら、掌が両方とも真っ赤に濡れているのに気付いた。
先生が見たら驚くだろうと思ったから、とっさに手を隠し、おしっこと言ってその場を離れた。
ブランコの鎖を滑り落ちた時に、鎖の鉄サビが付いたか、掌の皮膚が擦り切れて血が滲んだかしたのであろう。
廊下の隅にある洗面所へ行き、水道水で流したら、赤いものはすぐに落ちたが、どうも掌に深く沁み込んで完全には落ちていない気がするので、石鹸を使って繰り返し洗った。
そのうちに、水を多めに手に含ませておくと石鹸の泡が多く出るのを発見し、面白いので洗面所を泡だらけにして遊んでいたら、映画が終わったらしい、静まり返っていた廊下や教室が、またいつものように落ち着かない園児の声や足音で、騒がしくなってきた。
作品名:幼年記 作家名:水無瀬