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何も分からなくなった彼の表情。彼はもう、蝕まれた心を閉ざしたっきり、部屋の中で静かに座ったまま、私が訪れたのも気付かずに、じっと窓の外を見ていることもあった。
それでも彼は私を見ると元気そうな顔をしてくれた。
彼が私に心を開いたとは思わなかったが、彼の穏やかな顔は、私にとって嬉しいものだった。
時折、気が向くままにとりとめの無い事を話してくれる事もある。そんな日の彼は機嫌が良く、私は安心して彼を見ていることができた。
彼の話すことは正直言ってもうわからない。だけど、彼が私にこうして話をしてくれる短い時間は、何にも変えられない贈り物のように思えた。
偶然見た左の薬指には、少しずつ色合いの違う金の、三連になった指輪がはめられていた。
現実感の無い彼の指で、それは恋人、多分あの少女との記憶をとどめているかのように、思われた。
彼が不意に沈黙するたび、彼が何処か遠い場所へ去ってしまうようで、私は意味も無く不安になった。
それは、彼の最後を予感しての恐れだったのかも知れない。
ある朝、眠ったまま彼は動かなくなっていた。
部屋中に満ちる、白々とした光の中で、あの二枚の写真を手に、微かな、穏やか過ぎるほどの笑みさえ浮かべ、まだ眠っているかのような、綺麗な顔をして、彼は横たわっていた。
青白くやつれた彼の、本当に幸せそうな表情。
私はその時初めて、自分が涙を流していることに気付いた。
彼を失ったことに、いつまでも涙が止まらなかった。
古びた二枚の写真を愛したのと同じように、ごく当たり前の事のように、私は彼に恋をしていたのだった。
それはあまりに短い恋だった。
今はもう、記憶の底に沈んだ微かな痛みしか、思い出せない。