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 私がはじめてその人を見た時、彼は遠い目をしたまま、二枚の写真を手にして座っていた。
 彼が誰だったのか、私はもう、彼の名前すら思い出すことも出来ない。
 思い浮かぶのは、彼が手にしていた、どんなことをしても手放そうとしなかった、古びたシルバーメタルのシガレットケース。
 中には煙草と一緒に、彼以外誰にも分からぬよう忍ばせてあった、古びた二枚の写真。
 多分、彼が長年慈しんでいただろうと思われる程の、擦り切れて端が所々破れた、セピア色のトーンの淡いモノクロ写真。
 記憶の中の彼は、いつもその写真を手にしていた。


 心を蝕まれた彼が、私の働いていた病院に送られてきた時には既に遅く、そのまま正気を取り戻す見込みは、無かった。
 いつも、簡素な個室の中で、彼は格子のはまった窓から外を見ていた。
 世話をしに部屋へ訪れるたび、寝台の上で上体を起こしたまま佇んでいる彼は、ぼんやりとした、何も見ていないかのような暗い虚ろな視線で、ほんの少し寂しげに見える笑みを唇に浮かべて窓の外を見ていた。
 写真を手にしたまま外を見ていた彼は、永遠に止まった時の中で生きているように、私には見えていたのだった。
 その時、私は彼に恋をしなかっただろうか。
 もう若くは無く、美しくも無い私なのに、目の前にいる彼の、傷ついた色を浮かべた横顔やせつない眼差し、いつも離すことの無かったセピア色の写真に、微かに痛む想いをいつしか抱えていたのだ。


 心を閉ざしてしまった彼は、決して誰にもなつくことの無い、傷ついた狼のように見えた。
 今まで何を食べて生きてきたのか疑うような、骨ばかりに痩せた体も、死人のような蒼ざめた顔色も、どこか近寄り難い、険のある横顔も、彼の全てが今まで見慣れていた人たちと違っていて、正直言えば私は少し戸惑ってさえいたのだった。
 彼は何を思っていたのだろうか。
 長年の苦しみや哀しみを全て浄化したかのような白さの中で、やっと安らぎを取り戻した彼の、伏せた睫毛の奥に隠れた笑みや無垢にすら見える安らかな顔が、今も瞼の奥に焼きついて消えようとはしない。
 瞳を隠す前髪と、男にしては長い睫毛に隠された彼の瞳は、いつも何処か、遠くを見ているようだった。
 多分、彼が考えていたのは、この二枚の写真のなのだろう。
 何の根拠もなくそう思っていた。
 何が彼の心をそんなにも占めているのか、どうしてそんなにせつない顔をするのか、いつしか私はそのことばかり考えて、彼を見るようになった。


 彼の世話をするようになって幾日かが過ぎたある日、私は偶然、彼がベッドシーツへと取り落とした写真を目にした。
 写真を拾い上げて彼に渡すと、彼はまるで硝子か何かの壊れそうなものでも扱うように、写真を大事に受け取り、ありがとうと、まるで呟くかのように言った。
「…大事な方?」
「……ああ…貴方か…」
 私を見ると、彼は夢から醒めたように呟いた。
「随分、古い写真ですのね。それに…とても、大切にしていたようで…」
 私の言葉に、彼はほんの少し哀しげな顔をして、唇の端に笑みを浮かべると、手にした写真を私へと差し出した。
 私へと差し出された、白い蝋細工を思わせる、蒼ざめた細い指先。
 その面影が、私をせつなくさせる。
 写っていたのは、少年と少女。
「…もう…思い出せないんだ……誰だったのかも…」
 彼はいつも、たくさんの沈黙を挟みながら、言葉を選ぶように話すのだった。
 話すその都度、透明な哀しさが、彼の周りを漂っているように見えた。
 渡された一枚を手にとると、そこには淡い、翳りのような薄色のワンピースを纏った長い黒髪の少女がいた。
 ほんの少し寂しげな表情のまま、カメラに向かって微笑みかけていた。
 今までに見たことが無いほど優しく透明な儚い笑みが、少女の影を薄く、淡く彩っている。
 緩やかに顔を覆い、肩へ流れて背中へと消える、青みを帯びた黒髪。伸びるままに任せた不揃いの髪は、その昔自分が切ったのだと、不意に彼が言った。
 彼の心のはるか奥の、記憶の片隅にある少女。
 透明な笑みを浮かべているのに、少女の瞳は暗い色をしていて、隠しようの無い絶望を潜めたその瞳が、私に微かな錯覚を呼び起こす。
 不意に、もうこの世には存在しないかのようなせつなさが胸をよぎり、後には嵐のようなデジャヴだけが残った。
「…綺麗なひとね。」
 私はただそれだけしか、言えなかった。
 多分それは、彼の腕の中で眠っていた少女。猫のようによく変わる表情と、移り気な心。
 無防備なまでの信頼と、やるせない寂寥。
「……いつも、遠くから…後ろ姿ばかりを、見ていたような…そんな気がするんだ……」
 不意に彼が、沈黙の中で、途切れるように言葉を繋いだ。
「誰を、ですの?」
 彼は私を一瞬、真顔で見つめると、すぐに元の、胸を締めつけるような、せつない笑みを浮かべた表情に戻って、
「…皆、失ってしまった…」
 と言った。
「失ったって…?」
 彼は、ほんの少しの過去の記憶を、思い出したのだろうか。
 本当に、哀しそうな顔をして、彼は私の手元の写真、そしてもう一枚の、かなり古びた写真を見ていた。
「…こいつも、もうずっと前に死んだよ……」
 手にしていたもう一枚の写真を、彼から受け取る。
 カメラに向かって、無防備なまでの笑顔を見せた、異国の少年がいた。
 短い、綺麗な金髪が、少年の幼い顔を柔らかく縁取っている。
 少年はまだ若く、幼い雰囲気が彼を包んでいる。その澄んだ瞳は、かつて私がここで世話をしていた独逸人の少年に、どことなく似ているようだった。
 彼はギムナジウムの可愛らしい子供だった。心を蝕まれてはいたが、それとひきかえに手にした澄んだ瞳が印象的な、いつも私の後からついてきては、何かと話しかけてくれた子供。あの少年は今、どうしているだろう。
 写真の中の少年は、多分カメラを手にした彼に向かって、限り無い愛情と信頼を向けていたのだろう。
 誰にもできないような、無防備すぎるほどの笑顔が、私の胸をしめつけた。
 二枚の写真が、私をせつない思いで一杯にする。
 このような笑顔を見せていた少女と少年は、彼にとってどれほどの存在だったのだろう。
「…貴方に、あげるよ…」
 不意に彼は、二枚の写真を私に差し出していた。
「……駄目ですわ。そんな、大事なものを…」
「でも…」
「貴方が持っていた方が、二人とも喜びますわ…」
 その時の彼の顔を、私は今でもはっきりと覚えている。
 夢から醒めたような彼の表情。
 ほっとしたような、やるせないような、複雑な瞳の色。彼の心は何かに、もしかするとあの写真の二人に、ずっと縛られていたのだろうか。
 表情の変化に不安げな顔をしていた私を見て彼は、少し寂しげな顔で微笑むと大事に写真を受け取り、それきり何の表情も見せなくなった。
 悲しみと絶望の瞳を持つ少女と、まだ何も知らない瞳の少年。
 二人は彼にとってどんな存在だったのだろうか、今となっては知るよしも無い。



 それから、彼は二人のことを何も言わなくなった。
 私も、何も聞かなかった。
作品名:S 作家名:りく