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虫めずる姫君異聞・終章

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 鬼丸は無様にも、恐怖のあまり腰が抜けたようだ。立とうにも立てず、這いながら逃れようとする。当然、公子からも手を放し、距離ができた。
 雪代に乗った公之は逃げようとする鬼丸なぞ眼にもくれず、鬼丸に向かって走ってくると見せかけ、走りざま、公子を抱き上げて馬に乗せた。
 鬼丸が悪態をつくのを後に、公之は雪代を全速力で駆けさせる。
「間に合って良かった」
 公之が公子の髪に頬を埋める。
 しばらく馬を走らせた後、公之が急に手綱を引いた。雪代が鋭いいななきを上げ、止まる。
 二人はいつしか左京の町に入っていた。
 朝の早い行商人がそろそろ都大路に姿を見せている。
 京の町は碁盤の目のように整然とひろがっているが、右京と左京の二つの町の中、右京は人家も少なく、昼間でも人通りが少なく寂れている。対する左京は町家だけではなく、貴族の屋敷も居並び、商売人たちの呼び声もかしましく、賑やかだ。人通りも多い。
「姫、もう二度と私の傍からいなくならないと約束してくれないか」
 公子の髪についた砂粒を手でそっと払ってやりながら、公之が言った。
「姫があの盗賊どもに捕らえられているのを見たときは、生きた心地がしなかった。姫を愛しているとは思っていたが、今回のことで、私は自分が姫をどれほど大切に思っているのか改めて思い知らされた気がする」
 公子の眼に新たな涙が溢れる。
「はい」
 ただ、それだけしか言えなかった。伝えたいこと、言いたいことは山ほどあるのに、気持ちばかりが先走りして上手く言葉にならない。
 何故、今まで自分の気持ちから眼を背けていたのだろう。公子はもっと早くから、公之の傍にずっといたいと思っていた。そう、公之への想いをはっきりと自覚したのは、三ヵ月前、公之と初めて唇を重ねた日のことだった。あの日、公子は思ったのではないか。
 この男のことを、もっと知りたい、公之が見せる色々な表情をもっと見て見たいと。
 ずっと一緒にいたいと感じる、その心こそがその人と生涯を共にしたいということなのだ。
 漸く、公子はその大切な事実に気付いたのである。
 この男の傍にいて、共に歳を取り、様々な物を一緒に見て、語り合いたい。
 春も夏も秋も冬も。
 降り積もる年月、一緒にいて同じ景色を眺めていたい。
 生まれたばかりの太陽が眩しい光が投げかけている。ふと前方を見れば、京の町家が軒を連ねる向こう側、はるかな地平から日輪が空を朝焼けの色に染めながら昇ってゆくところだった。こんなにも生命力に溢れた、力強さを感じさせる太陽を公子は初めて眼にしたような気がする。
 公子は自分たちのゆく手を照らす新しい光に眩しげに眼を細めながら、そっと公之の胸に頬を押し当てた。
 
 
―この男の傍にいて、共に歳を取り、様々な物を一緒に見て、語り合いたい。
 春も夏も秋も冬も。
 降り積もる年月、一緒にいて同じ景色を眺めていたい―。

 恋する少女の心は時を越え、女から女へと受け継がれてゆく。
 時はうつろい、時代は変わっても、人を愛する気持ちは同じで変わらない。
 今は昔、虫めずる姫君と呼ばれた一人の少女の恋物語。