虫めずる姫君異聞・終章
臣下の妻を、しかも大切な宮中行事のただ中に犯す―そんな節操もない男が帝と呼ばれる立場にいるのかと思えば、虫酸が走るような忌まわしさを感じたものだ。
自分は、結局は公子に対してその帝と同じ仕打ちをしたのだ。
公之は自分が自分で許せなかった。
―姫、一体、どこにいるのだ?
心で公子に問いかけてみても、返事が返ってくるはずもない。
落胆と焦りに苛まれながら、なおも馬の手綱を引いて歩いてゆく。
その時、門の方で女の凄まじい悲鳴が響き渡った。
公之は馬にひらりと跨ると、朱雀門に向かって疾駆した。
「おいおい、そんなに暴れるなって」
右眼の下に泣きぼくろのある男がにやついた顔で言う。
二人の男に組み敷かれた公子は、涙が止まらなかった。渾身の力を振り絞って抵抗を試みても、いかにせん、両手は縛られり両脚は弟の方にしっかりと押さえつけられていては到底身じろぎもできない。
「兄貴、こいつァ、男が初めてじゃないのか」
兄貴と呼ばれる男は、相棒を里丸と呼んでいる。恐らく兄の方がよく名を知られる鬼丸なのだろう。
公子のあまりの暴れように、里丸の方は感じるものがあったようだ。
「そうか、そいつはなおのこと愉しみだな。貴族の姫さんで、生娘か。滅多とお眼にかかれねえほどの獲物だぜ。それにしても、姫さんよ、あんたみてえな良いところの娘がどうしてこんな朝っぱらからこんな物騒なところをほっつき歩いてたんだ?」
泣きぼくろの男が公子の顔にぐっと顔を近付ける。だが、公子はプイとそっぽを向いた。
こんな連中とは口も聞きたくない。
第一、今の公子は猿轡をされていて、返事をしようにもできない。
と、何を思ったか、男は鬼瓦のような風貌を歪めた。笑ったつもりなのかもしれないが、全然笑ったようには見えない。
「なかなか気の強い姫さんのようだな。俺ァ、気に入ったぜ。なあ、里丸。この女、俺たちでさんざん可愛がってやった後は色宿にでも売り飛ばそうと思っていたが、止めるぞ」
「ええっ、何でだよ。こんな上玉なら、滅法高く売れるのにさ」
里丸は口を尖らせている。兄の突然の翻意が不満なのだ。
「兄貴、また、いつもの悪ィ癖が始まったな。この女に惚れたのか」
男は里丸の言葉には応えず、公子に更に顔を近付ける。
「なあ、お前、俺の女にならねえか?」
公子はなおも顔を背けたまま、男の方を見向きもしない。
「兄貴、この女、強情張ってるように見えるが、震えてるぜ。本当は怖くてたまらねえんだろうにな」
里丸が下品に笑い、泣きぼくろの男は何とも陰惨な笑いを浮かべた。
「なかなか可愛い女だな。怖がることはねえさ、俺たちがこれから可愛がってやるからな。どうせ、どこかの貴族のぼんぼんとするはずだったことを、俺たちが代わりに教えてやるだけのことさ。大人しくしてたら、極楽に行けるほど良い気持ちさせてやるぜ」
公子は涙の滲んだ眼で、男を睨みつけた。
「これこれ、この眼。たまらねえな。そそられるぜ」
鬼丸が舌なめずりするような眼で公子を見る。
下卑た視線に晒され、公子は身が戦慄くのを感じた。
「兄貴、さっさとやっちまおう、俺はもう我慢できねえ」
里丸が言い終えるのももどかしく、小袖と袴を脱ぎ捨て、下帯一つになった。
公子は見たくないものを見せられ、思わず視線を逸らす。
そのときだった。
馬のいななきと共に、鋭い声が朝のしじまを破った。
「貴様ら、何をしている」
「―!」
公子の眼に、こちらに向かって駆けてくる男の姿が映じた。
―公之さま!!
公子の胸に限りない安堵がひろがってゆく。嬉し涙が溢れた。
公之が助けてにきてくれたのだ。
二人の野盗は突然の邪魔者の登場に、流石に仰天したようだ。
鬼丸の方がチッと小さく舌打ちし、里丸に顎をしゃくる。
「とんだ邪魔が入りやがった」
里丸が脱ぎ捨ててあった小袖の袂から匕首を取り出した。
「姫を放せ」
公之が低い声で言うと、里丸がペッと唾を吐いた。
「ヘン、この女は俺たちが見つけたんだ。返せと言われて、はい、そうですかと、あっさり返せるか」
「その方は、お前たちのような者が容易く触れて良いお方ではない」
「けっ、どこの貴族のお姫さまかは知れねえが、俺たちにゃア、そんなことはどうでも良い。その身体で俺たちをしっかりと愉しませてくれりゃア。それで十分なんだよ」
里丸が淫猥な笑みを刻むと、公之は腰にはいた太刀をおもむろに抜いた。
「貴様、まだ言うか。たとえ言葉だけでも、その方を愚弄することは許さぬ」
普段は穏やかな人柄で知られる公之の全身から、ゆらゆらと殺気が蒼白い焔となって立ち上っている。
この男たちは、公之が怒れば怒るほど、冷静になってゆくのを知らないのだ。だが、流石に鬼丸の方は弟と違って、公之の発散するただならぬ雰囲気を察したのだろう。
里丸の背後から声をかけた。
「里丸、油断するな。この男、ただ者じゃあねえ」
里丸もまた匕首を抜く。
漸く差し込み始めた朝の光に、里丸の抜いた刃が鈍い光を放った。
「色男ぶったことを後悔するなよ」
そのひと言を合図とするかのように、里丸が獣のような咆哮を上げて走ってゆく。
だが、一瞬の後、何とも凄まじい断末魔の叫び声が辺り中に響き渡った。
固唾を呑んでなりゆきを見守っていた公子は、頬を引きつらせた。
それは、この世のものとも思えない凄惨な光景だった。里丸の首が地面に転がり、首と切り離された胴体が血飛沫をごぼごぼと溢れさせながら倒れてゆく。
公之は里丸に斬りつける暇すら与えなかった。すれ違いさま、たったひと太刀で里丸を切り伏せたのだ。
「手前ェ、よくも弟を殺りやがったな」
鬼丸が憤怒の形相で公之を睨めつけた。
「弟の弔い合戦の前に、お前の大切な女をあの世に送ってやる」
鬼丸が傍らの公子の身体を乱暴に引っ張った。地面に転がされたままの公子を片腕に抱え、その白い喉に匕首の切っ先を当てる。
「女の生命が惜しければ、まず刀を捨てろ」
鬼丸が不敵な笑みを見せる。
公之は感情の読み取れぬ瞳で鬼丸を見、ついで公子を見た。公子は涙の滲んだ眼で首を振る。
―公之さま、私のことはもう良いのです。私のために、あなたさまがお生命を無駄になさる必要はございません。
そう伝えたつもりだった。
公之は静謐な瞳で公子を見つめた後、持っていた刀を無造作に放り投げた。
「そう、それで良い」
鬼丸が満足げに頷く。
その時、ひと刹那の間が生じた。
その鬼丸が見せた、たった一瞬の隙を公之は見逃さなかった。
公之がピィーと指笛を鳴らすと、いずこからともなく白馬が現れる。まるで神の使いを思わせるかのような純白の馬は、ひと声鳴くと、公之の方に向かって全速力で疾走してきた。
公之の愛馬雪代(ゆきしろ)である。
公之は、その白馬にひらりと跨ると、鬼丸めがけて雪代を走らせる。
ヒと、盗賊が悲鳴を上げた。このままでは鬼丸は雪代の蹄(ひづめ)に真正面から当たるだろう。あれだけの逞しい馬に蹴られたら、流石の盗賊もひとたまりもあるまい。下手をすれば、飛ばされた拍子にどこかを打ち、打ち所が悪ければ死んでしまう。
自分は、結局は公子に対してその帝と同じ仕打ちをしたのだ。
公之は自分が自分で許せなかった。
―姫、一体、どこにいるのだ?
心で公子に問いかけてみても、返事が返ってくるはずもない。
落胆と焦りに苛まれながら、なおも馬の手綱を引いて歩いてゆく。
その時、門の方で女の凄まじい悲鳴が響き渡った。
公之は馬にひらりと跨ると、朱雀門に向かって疾駆した。
「おいおい、そんなに暴れるなって」
右眼の下に泣きぼくろのある男がにやついた顔で言う。
二人の男に組み敷かれた公子は、涙が止まらなかった。渾身の力を振り絞って抵抗を試みても、いかにせん、両手は縛られり両脚は弟の方にしっかりと押さえつけられていては到底身じろぎもできない。
「兄貴、こいつァ、男が初めてじゃないのか」
兄貴と呼ばれる男は、相棒を里丸と呼んでいる。恐らく兄の方がよく名を知られる鬼丸なのだろう。
公子のあまりの暴れように、里丸の方は感じるものがあったようだ。
「そうか、そいつはなおのこと愉しみだな。貴族の姫さんで、生娘か。滅多とお眼にかかれねえほどの獲物だぜ。それにしても、姫さんよ、あんたみてえな良いところの娘がどうしてこんな朝っぱらからこんな物騒なところをほっつき歩いてたんだ?」
泣きぼくろの男が公子の顔にぐっと顔を近付ける。だが、公子はプイとそっぽを向いた。
こんな連中とは口も聞きたくない。
第一、今の公子は猿轡をされていて、返事をしようにもできない。
と、何を思ったか、男は鬼瓦のような風貌を歪めた。笑ったつもりなのかもしれないが、全然笑ったようには見えない。
「なかなか気の強い姫さんのようだな。俺ァ、気に入ったぜ。なあ、里丸。この女、俺たちでさんざん可愛がってやった後は色宿にでも売り飛ばそうと思っていたが、止めるぞ」
「ええっ、何でだよ。こんな上玉なら、滅法高く売れるのにさ」
里丸は口を尖らせている。兄の突然の翻意が不満なのだ。
「兄貴、また、いつもの悪ィ癖が始まったな。この女に惚れたのか」
男は里丸の言葉には応えず、公子に更に顔を近付ける。
「なあ、お前、俺の女にならねえか?」
公子はなおも顔を背けたまま、男の方を見向きもしない。
「兄貴、この女、強情張ってるように見えるが、震えてるぜ。本当は怖くてたまらねえんだろうにな」
里丸が下品に笑い、泣きぼくろの男は何とも陰惨な笑いを浮かべた。
「なかなか可愛い女だな。怖がることはねえさ、俺たちがこれから可愛がってやるからな。どうせ、どこかの貴族のぼんぼんとするはずだったことを、俺たちが代わりに教えてやるだけのことさ。大人しくしてたら、極楽に行けるほど良い気持ちさせてやるぜ」
公子は涙の滲んだ眼で、男を睨みつけた。
「これこれ、この眼。たまらねえな。そそられるぜ」
鬼丸が舌なめずりするような眼で公子を見る。
下卑た視線に晒され、公子は身が戦慄くのを感じた。
「兄貴、さっさとやっちまおう、俺はもう我慢できねえ」
里丸が言い終えるのももどかしく、小袖と袴を脱ぎ捨て、下帯一つになった。
公子は見たくないものを見せられ、思わず視線を逸らす。
そのときだった。
馬のいななきと共に、鋭い声が朝のしじまを破った。
「貴様ら、何をしている」
「―!」
公子の眼に、こちらに向かって駆けてくる男の姿が映じた。
―公之さま!!
公子の胸に限りない安堵がひろがってゆく。嬉し涙が溢れた。
公之が助けてにきてくれたのだ。
二人の野盗は突然の邪魔者の登場に、流石に仰天したようだ。
鬼丸の方がチッと小さく舌打ちし、里丸に顎をしゃくる。
「とんだ邪魔が入りやがった」
里丸が脱ぎ捨ててあった小袖の袂から匕首を取り出した。
「姫を放せ」
公之が低い声で言うと、里丸がペッと唾を吐いた。
「ヘン、この女は俺たちが見つけたんだ。返せと言われて、はい、そうですかと、あっさり返せるか」
「その方は、お前たちのような者が容易く触れて良いお方ではない」
「けっ、どこの貴族のお姫さまかは知れねえが、俺たちにゃア、そんなことはどうでも良い。その身体で俺たちをしっかりと愉しませてくれりゃア。それで十分なんだよ」
里丸が淫猥な笑みを刻むと、公之は腰にはいた太刀をおもむろに抜いた。
「貴様、まだ言うか。たとえ言葉だけでも、その方を愚弄することは許さぬ」
普段は穏やかな人柄で知られる公之の全身から、ゆらゆらと殺気が蒼白い焔となって立ち上っている。
この男たちは、公之が怒れば怒るほど、冷静になってゆくのを知らないのだ。だが、流石に鬼丸の方は弟と違って、公之の発散するただならぬ雰囲気を察したのだろう。
里丸の背後から声をかけた。
「里丸、油断するな。この男、ただ者じゃあねえ」
里丸もまた匕首を抜く。
漸く差し込み始めた朝の光に、里丸の抜いた刃が鈍い光を放った。
「色男ぶったことを後悔するなよ」
そのひと言を合図とするかのように、里丸が獣のような咆哮を上げて走ってゆく。
だが、一瞬の後、何とも凄まじい断末魔の叫び声が辺り中に響き渡った。
固唾を呑んでなりゆきを見守っていた公子は、頬を引きつらせた。
それは、この世のものとも思えない凄惨な光景だった。里丸の首が地面に転がり、首と切り離された胴体が血飛沫をごぼごぼと溢れさせながら倒れてゆく。
公之は里丸に斬りつける暇すら与えなかった。すれ違いさま、たったひと太刀で里丸を切り伏せたのだ。
「手前ェ、よくも弟を殺りやがったな」
鬼丸が憤怒の形相で公之を睨めつけた。
「弟の弔い合戦の前に、お前の大切な女をあの世に送ってやる」
鬼丸が傍らの公子の身体を乱暴に引っ張った。地面に転がされたままの公子を片腕に抱え、その白い喉に匕首の切っ先を当てる。
「女の生命が惜しければ、まず刀を捨てろ」
鬼丸が不敵な笑みを見せる。
公之は感情の読み取れぬ瞳で鬼丸を見、ついで公子を見た。公子は涙の滲んだ眼で首を振る。
―公之さま、私のことはもう良いのです。私のために、あなたさまがお生命を無駄になさる必要はございません。
そう伝えたつもりだった。
公之は静謐な瞳で公子を見つめた後、持っていた刀を無造作に放り投げた。
「そう、それで良い」
鬼丸が満足げに頷く。
その時、ひと刹那の間が生じた。
その鬼丸が見せた、たった一瞬の隙を公之は見逃さなかった。
公之がピィーと指笛を鳴らすと、いずこからともなく白馬が現れる。まるで神の使いを思わせるかのような純白の馬は、ひと声鳴くと、公之の方に向かって全速力で疾走してきた。
公之の愛馬雪代(ゆきしろ)である。
公之は、その白馬にひらりと跨ると、鬼丸めがけて雪代を走らせる。
ヒと、盗賊が悲鳴を上げた。このままでは鬼丸は雪代の蹄(ひづめ)に真正面から当たるだろう。あれだけの逞しい馬に蹴られたら、流石の盗賊もひとたまりもあるまい。下手をすれば、飛ばされた拍子にどこかを打ち、打ち所が悪ければ死んでしまう。
作品名:虫めずる姫君異聞・終章 作家名:東 めぐみ