ばか
「かえれないんです!たすけてえ!」
バスに乗れないとしても、歩いて30分くらいの距離なので、とくになんということもなく家に帰りつくことが出来たが、あの不安を爆発させた亜季乃の顔は、今でも忘れられない。
僕は、頼りない、兄だ。
その出来事は、カッターで刻まれたかのように、痛くて人に見せられない思い出となった。
亜季乃は覚えているだろうか?今まで亜季乃のために出来るだけのことをしてきたつもりだが、最近は、話しかけてもまともに返事もしなくなってしまった。きっと頼りない兄のことなどあてにもせず、やけになって遊びまわっているのだ。
目の前の幼い男の子は、通りの向こう側を見ると、ぱっと表情を輝かせた。僕は何だか嫌な予感がした…と、思うと、少年は車通りの多い道路へと飛び出した!
ほぼ同時に、道路の反対側から人影が飛び出した。大きくジャンプして少年を抱え込むと、そのまままたジャンプして少年を腕の中でかばいながら、ゴロゴロと回転して僕の前できれいに着地した。着地したその青年は、少年が無事なことを確認するとホッとして笑い、その際、きれいな白い歯がキラっと光った。
尋常なジャンプではない。オリンピックの選手ではあるまいし。
「大丈夫かい…」
「おとうさーん」
少年が青年の胸にしがみつく。しかし、僕は妙な違和感があった。 そう…この親子はまったく似ていない。
5分もすると、たった今事件があった場所はもとの喧騒に落ち着き、凡庸な人々はまた『自殺ボックス』へと並びだす。
ようやく僕の番だ。
「こちらへどうぞ!」
笑顔のさわやかな青年が僕を案内する。真っ暗で狭いトイレのような部屋に入ると、小さな窓から、並んで順番を待つ人たちの長い列が見えた。いや、何か人が倒れている。けんかだろうか?数人の黒い服の連中が大暴れをしている。必死で止める数人の役人たち。先ほどのさわやかな笑顔の青年もはがいじめにされる。
そして、人ごみを押しのけて必死に僕のいる『ボックス』にたどり着こうとする小柄な人影。顔をおおっている布のようなものを煩わしげにはずしながら、こちらに近づいてくる。長い髪がぱらりと広がる。
亜季乃だった。
テロリストは亜季乃だったのか?
亜季乃は僕のいる頑丈な鉄の扉をなんとか開けようとする。…全然開かない。
僕はもう、『実行』と書かれた赤くて丸いスイッチを押してしまってから、徐々に頭がもやもやしてきていた。
硬質ガラスの向こうでは亜季乃が泣き叫んで無茶苦茶にこぶしでたたきまくる。
そんなにたたいたら壊れてしまうよ…僕は朦朧とした意識の中で彼女に微笑み、言った。
「あとでメールするからな…」
「ばか!」
亜季乃は『自殺ボックス』の前で両手をついて、妹想いだった兄を呪った。涙がぽたぽた落ちる。
「死んで、どうやってメールするのよ…」
自殺者数が出生数を超えた現代。
人口ヒトゲノムによって生まれた新人類がはじめた史上最大規模の虐殺行を食い止めるため、亜季乃たちテロリストの戦いは始まったばかりだ。
おわり