ばか
「ばか!」
妹の亜季乃はそう言うと、せまいアパートの扉を開け、階段をとんとんと降りると、
一目散に路地を通り抜け、突きあたりの大通りを左に曲がり見えなくなった。
僕はため息をついてテレビの前の座布団に尻をついて両足を投げ出した。
まあ、けんかの内容はいつものこととして、たった今しがたの、彼女の怒った顔を思い返していた。
実は、嫌いじゃなかった。あの、どこか悲しげな「ばか!」と言った時の顔が。
なんだかほんとの兄妹のような(いや、ほんとにそうなんだけど)、家族のつながり、みたいなものが、あの表情にたしかに含まれている気がして、なんだかちょっとほっとするのだ。
両親が事故で亡くなって以来、高卒で就職した僕は働きづくめで稼ぎ倒し、何とか小学生だった亜季乃を高校まで上げることができた。 しかし、リストラにあってしまった僕は無職になってしまった。
もちろん僕は再就職先を探した。なにせ亜季乃はまだ高校2年。学費もかかるし、出来れば大学へ進学させたい。しかし、就職先は、まったくといっていいほどなかった。
全くのゼロ。
昔は、ハローワークだか職業安定所だか、国民生活にとって便利な機関があったそうなのだが、一体何年前の話なんだろう?
なんということもなく、目の前のテレビのスイッチを入れてみる。
『ニュースです。厚生労働省の発表によりますと、国民全体の失業率は、0パーセントになったことが明らかになりました。これは統計を始めて以来はじめての…』
おいおい。
ここに、失業者がいるんだぞ。
おーい。
自嘲気味に、やけに美男子のアナウンサーに話しかける。もちろんそのアナウンサーは何の反応もなく、隣の(やっぱり色男の)解説者に話をふっていた。
『これは、我が国のスーパーコンピューターの処理速度が、無量大数にまで達した、ということが大きいと思いますね。出生率も右肩上がり、GDPも世界でトップ、犯罪率もほぼゼロに…』
ドカン!
遠くから爆発音が、振動とともにこのアパートに伝わってきた。あわてて僕は扉を開けて、錆びたがたがたの鉄板の共用玄関に躍り出た。お隣さんの30代の旦那さんも、子供を肩車しながら少し遅れて出てくる。ここは2階なので、多少見通しがきくが、さっき亜季乃が曲がった通りのあたりから先が見えず、煙が立ち上っていることしかわからなかった。
「また、テロですよ。」
苦笑いして隣の旦那さんが弱り切った表情を僕に投げかける。肩の上の3歳の息子さんも全く同じ顔をしてこっちを見るので、ぷっと笑ってしまう。
「まあ、けが人はゼロだからいいけど、あの『ボックス』を全部壊されたら、ぼくら、いよいよ行き場がなくなっちゃいますね」
僕はそう受け答えた。旦那さんも僕と同じでリストラにあったクチだ。ちらっとお隣の部屋をのぞくと、放心状態の奥さんが部屋の荷造りをしていた。旦那さんは言った。
「いやあ、やっと妻を説得して、皆であっちの方に行くのを理解してもらいましたよ。荷造りなんて必要ないのにね…」
あっちの方、とはあの世のことだ。
プルルルル…
僕のケータイが鳴った。母からだ。
「それでは失礼…」
旦那さんに挨拶をして部屋に戻ると、ケータイを耳にあてる。
「真一。そっちの様子はどうだい?」
いつもの母の声だ。メールは苦手なので、いつも電話をかけてくる。
「また、亜季乃とけんかしちまったよ。最近ちっとも家に帰ってこないで、学校にも行っていないみたいなんだ。どうも若い男どもと街をふらついているみたいなんだ。
まあ、あいつは成績優秀で行動力もあるからこっちでも十分やっていけるはずさ。
…父さんは?みんな元気?」
訊いてから僕は苦笑いした。もう死んでいるから元気も何もない。
案の定母は爆笑していた。
「じゃあもうすぐそっち行くからね」
と言って僕は電話を切る。つけっぱなしのテレビがコマーシャルをやっている。
『悩んでないで相談しよう』
『ただいま、自殺キャンペーン中です。公共広告団体』
最近のコマーシャルはこんなのばっかりだ。
僕は着の身着のままでアパートの階段を下りて行った。さわやかな天気だ。5月の風が寝不足のほてった顔に心地よい。昨日もパソコンとにらめっこしたまま寝てしまったからだ。
リストラにあってからというもの、僕はブログにグチばかり書いていた。どうしても我慢できない。どうして世の中には僕より仕事ができて、僕より美男子で、僕より性格がよいやつばかりなんだろう?
すこしずつ、僕の日記にコメントが返ってきた。まずは学生時代バイク事故で死んだ友達。不倫が会社にばれて自ら命を絶った恋人。そして死んだ両親からの電話も来るようになった。
はじめはもちろんびっくりしたが、政府のホームページを見てようやく合点がいった。
現代は、すべての個人情報が、量子レベルでスーパーコンピューターによって管理されていて、リアルタイムで巨大なサーバーに記録されているらしい。
だから、突然不慮の事故で亡くなっても大丈夫。個人のデータは残っているのだから、サーバーの中で永遠に生き続けることが出来る。
しかもサーバーの中には限りなく本物に近い疑似世界が広がっていて、現実と変わらず生活しているというのだ。
コメントを見ていると、みんな結構楽しくやっているらしい。僕の恋人も、あっちの世界で、バイク事故で死んだ友達と日本中を旅しているらしく、二人してピースをしながら映っている写真をブログにアップしたりしている。
もしかしたら、やつらと三角関係になったりして…僕は新たな生活を結構楽しみにしている。
歩いているうちに太い通りに出た。
昔は電話ボックス、なんてものがあったそうだが、今は『自殺ボックス』が、町のあちこちに据え付けてある。
さっき爆破されたらしい一つはまだ生々しく煙を吐いているが、大体100メートルおきには設置されているので、とくに支障はないだろう。
どこの自殺ボックスも行列が出来ていて大盛況だった。
政府がキャンペーンをしているからだ。
「生活が苦しくなったら、相談を!」
それが合言葉だった。
家族が残されても、残された家族には税金が免除になり、未成年は学費が大学までただになるとあって、キャンペーン期間中の今月は、どこの自殺ボックスも人だかりだ。
ふと、迷子の少年が目に付いた。
泣きそうな顔をして、きょろきょろしている。
僕は、懐かしい感じがして、昔を思い出していた。
あれは亜季乃がまだ小学生になりたての、両親がまだ生きていたころ。
僕も小学6年生で、初めてバスに乗っておばあちゃんのお見舞いに行った帰りだった。
さあ、帰りのバスに乗り込もう、という時になって、大事な財布を忘れたことに気がついて、僕は青くなった。
「どうしたの?おにいちゃん」
目をきょろっとさせて、幼い亜季乃は、僕の顔を下から覗き込んでいる。
「いや、ちょっとね…」
僕は亜季乃を心配させないようにと、なんでもないふうを装ったが、その僕の不安な気持ちを一瞬にして悟った彼女は、突然大声で泣き出した。
「たすけて!たすけて!」
あたりかまわず、通りすがりの人に助けを求める亜季乃。
妹の亜季乃はそう言うと、せまいアパートの扉を開け、階段をとんとんと降りると、
一目散に路地を通り抜け、突きあたりの大通りを左に曲がり見えなくなった。
僕はため息をついてテレビの前の座布団に尻をついて両足を投げ出した。
まあ、けんかの内容はいつものこととして、たった今しがたの、彼女の怒った顔を思い返していた。
実は、嫌いじゃなかった。あの、どこか悲しげな「ばか!」と言った時の顔が。
なんだかほんとの兄妹のような(いや、ほんとにそうなんだけど)、家族のつながり、みたいなものが、あの表情にたしかに含まれている気がして、なんだかちょっとほっとするのだ。
両親が事故で亡くなって以来、高卒で就職した僕は働きづくめで稼ぎ倒し、何とか小学生だった亜季乃を高校まで上げることができた。 しかし、リストラにあってしまった僕は無職になってしまった。
もちろん僕は再就職先を探した。なにせ亜季乃はまだ高校2年。学費もかかるし、出来れば大学へ進学させたい。しかし、就職先は、まったくといっていいほどなかった。
全くのゼロ。
昔は、ハローワークだか職業安定所だか、国民生活にとって便利な機関があったそうなのだが、一体何年前の話なんだろう?
なんということもなく、目の前のテレビのスイッチを入れてみる。
『ニュースです。厚生労働省の発表によりますと、国民全体の失業率は、0パーセントになったことが明らかになりました。これは統計を始めて以来はじめての…』
おいおい。
ここに、失業者がいるんだぞ。
おーい。
自嘲気味に、やけに美男子のアナウンサーに話しかける。もちろんそのアナウンサーは何の反応もなく、隣の(やっぱり色男の)解説者に話をふっていた。
『これは、我が国のスーパーコンピューターの処理速度が、無量大数にまで達した、ということが大きいと思いますね。出生率も右肩上がり、GDPも世界でトップ、犯罪率もほぼゼロに…』
ドカン!
遠くから爆発音が、振動とともにこのアパートに伝わってきた。あわてて僕は扉を開けて、錆びたがたがたの鉄板の共用玄関に躍り出た。お隣さんの30代の旦那さんも、子供を肩車しながら少し遅れて出てくる。ここは2階なので、多少見通しがきくが、さっき亜季乃が曲がった通りのあたりから先が見えず、煙が立ち上っていることしかわからなかった。
「また、テロですよ。」
苦笑いして隣の旦那さんが弱り切った表情を僕に投げかける。肩の上の3歳の息子さんも全く同じ顔をしてこっちを見るので、ぷっと笑ってしまう。
「まあ、けが人はゼロだからいいけど、あの『ボックス』を全部壊されたら、ぼくら、いよいよ行き場がなくなっちゃいますね」
僕はそう受け答えた。旦那さんも僕と同じでリストラにあったクチだ。ちらっとお隣の部屋をのぞくと、放心状態の奥さんが部屋の荷造りをしていた。旦那さんは言った。
「いやあ、やっと妻を説得して、皆であっちの方に行くのを理解してもらいましたよ。荷造りなんて必要ないのにね…」
あっちの方、とはあの世のことだ。
プルルルル…
僕のケータイが鳴った。母からだ。
「それでは失礼…」
旦那さんに挨拶をして部屋に戻ると、ケータイを耳にあてる。
「真一。そっちの様子はどうだい?」
いつもの母の声だ。メールは苦手なので、いつも電話をかけてくる。
「また、亜季乃とけんかしちまったよ。最近ちっとも家に帰ってこないで、学校にも行っていないみたいなんだ。どうも若い男どもと街をふらついているみたいなんだ。
まあ、あいつは成績優秀で行動力もあるからこっちでも十分やっていけるはずさ。
…父さんは?みんな元気?」
訊いてから僕は苦笑いした。もう死んでいるから元気も何もない。
案の定母は爆笑していた。
「じゃあもうすぐそっち行くからね」
と言って僕は電話を切る。つけっぱなしのテレビがコマーシャルをやっている。
『悩んでないで相談しよう』
『ただいま、自殺キャンペーン中です。公共広告団体』
最近のコマーシャルはこんなのばっかりだ。
僕は着の身着のままでアパートの階段を下りて行った。さわやかな天気だ。5月の風が寝不足のほてった顔に心地よい。昨日もパソコンとにらめっこしたまま寝てしまったからだ。
リストラにあってからというもの、僕はブログにグチばかり書いていた。どうしても我慢できない。どうして世の中には僕より仕事ができて、僕より美男子で、僕より性格がよいやつばかりなんだろう?
すこしずつ、僕の日記にコメントが返ってきた。まずは学生時代バイク事故で死んだ友達。不倫が会社にばれて自ら命を絶った恋人。そして死んだ両親からの電話も来るようになった。
はじめはもちろんびっくりしたが、政府のホームページを見てようやく合点がいった。
現代は、すべての個人情報が、量子レベルでスーパーコンピューターによって管理されていて、リアルタイムで巨大なサーバーに記録されているらしい。
だから、突然不慮の事故で亡くなっても大丈夫。個人のデータは残っているのだから、サーバーの中で永遠に生き続けることが出来る。
しかもサーバーの中には限りなく本物に近い疑似世界が広がっていて、現実と変わらず生活しているというのだ。
コメントを見ていると、みんな結構楽しくやっているらしい。僕の恋人も、あっちの世界で、バイク事故で死んだ友達と日本中を旅しているらしく、二人してピースをしながら映っている写真をブログにアップしたりしている。
もしかしたら、やつらと三角関係になったりして…僕は新たな生活を結構楽しみにしている。
歩いているうちに太い通りに出た。
昔は電話ボックス、なんてものがあったそうだが、今は『自殺ボックス』が、町のあちこちに据え付けてある。
さっき爆破されたらしい一つはまだ生々しく煙を吐いているが、大体100メートルおきには設置されているので、とくに支障はないだろう。
どこの自殺ボックスも行列が出来ていて大盛況だった。
政府がキャンペーンをしているからだ。
「生活が苦しくなったら、相談を!」
それが合言葉だった。
家族が残されても、残された家族には税金が免除になり、未成年は学費が大学までただになるとあって、キャンペーン期間中の今月は、どこの自殺ボックスも人だかりだ。
ふと、迷子の少年が目に付いた。
泣きそうな顔をして、きょろきょろしている。
僕は、懐かしい感じがして、昔を思い出していた。
あれは亜季乃がまだ小学生になりたての、両親がまだ生きていたころ。
僕も小学6年生で、初めてバスに乗っておばあちゃんのお見舞いに行った帰りだった。
さあ、帰りのバスに乗り込もう、という時になって、大事な財布を忘れたことに気がついて、僕は青くなった。
「どうしたの?おにいちゃん」
目をきょろっとさせて、幼い亜季乃は、僕の顔を下から覗き込んでいる。
「いや、ちょっとね…」
僕は亜季乃を心配させないようにと、なんでもないふうを装ったが、その僕の不安な気持ちを一瞬にして悟った彼女は、突然大声で泣き出した。
「たすけて!たすけて!」
あたりかまわず、通りすがりの人に助けを求める亜季乃。