パンダのジョー
パンダのジョー
―Joe The Panda―
中田しん
大都会の喧騒は出来の悪いオーケストラのようで、行きかう人々は皆忙しそうな顔をして大急ぎで足を運んでいる。ビジネスマン。飛び交うMONEY。着飾った華やかな女たち。
しかし大都会にはそういった表の顔があれば裏の顔もあるのだ。表の顔の住人たちの足元、下水溝のフタは裏の世界への入り口。
地上から流れていく下水は地中深くなるほど次第に集まって地下水脈のような大きな流れになってゆく。ドブのような下水は猛烈な臭気を放つ。大昔に造られた下水道の壁と床は何十年ものあらゆる汚れが浸み込んだ崩れかかったレンガで出来ている。迷路のような下水道の中には裏の世界の住人、魑魅魍魎が棲んでいるのだ。
まるで洞窟のような、魔窟と言っても差支えないような、下水道局の作業員も足を運ばない最下層。その薄汚れた通路の床に、見事な霜降りの高級ステーキ肉が落ちていた。なぜそんな場違いなモノがこんなところに?そんなことはこの際大した問題ではない。
壁の隙間の闇に光る小さな目。あたりをうかがいながらそーっと出てきたのは汚れたドブネズミだ。ドブネズミが高級ステーキ肉に寄りつき、その口をつけようとした瞬間、威嚇の鳴き声が響いた。小心者のドブネズミはあわてて壁の隙間に退散していった。
現れたのは野良猫。舌舐めずりしてあたりを見回し、今まで食べたことも無いような御馳走にありつけると高級ステーキ肉に喰らいつこうとする野良猫だったが、そうは問屋が卸さない。
野良猫の背後から凄みのきいた唸り声が響く。猫が振り向くと、闇の中から薄汚れた狼が現れた。「その獲物はお前にはふさわしくない。」そんな唸り声の前に、渋々退散する猫だった。
勝ち誇ったような表情で肉の前まできた狼は、にやりと笑いながら高級ステーキ肉に齧りつこうとするが、その狼の背中に迫ってきた丸い影。無言の威嚇に怯え、凍りつく狼。狼が恐る恐る振り返るとそこには。
逆光にそびえる巨大なパンダが冷徹に狼を見降ろしていた。食物連鎖の頂点の存在の登場に、狼といえどすごすごと退散するしかない。まさに弱肉強食。
巨大なパンダ。その名はジョー。
田舎の夜というのはまっ暗いものである。街の明かりも電灯もない田舎道を、人間の母親が人間の幼い男の子をおぶって小走りに駆けて来る。草履が砂をかむ。
激しい息遣い。それは母親のものか子供のものか。
「お、お母さん…はあはあ、く、苦しい…。」
「坊や、頑張って。もう少しの辛抱よ。もう少しで先生に診てもらえるからね。」
母親も必死である。
やがて行く手におぼろげな明かりが見えてくる。それこそは田舎の診療所の玄関。
なんとか辿りつくと母親はドアを力いっぱいがんがん叩いた。
「すみません!急患です!先生!先生ー!お願いします!」
必死の形相でドアを叩き続ける母親。その背中で男の子がぐったりしている。すでに言葉を発する元気も無いようだった。
ところは変わってここは大都会。街路はクルマの大渋滞、クラクションが鳴り響く。
立ち並ぶ摩天楼。まるで森のようなビルの群れ。
そのビルの群れに埋もれるように赤い十字のマークの建物、総合病院がある。
大きな外来受付に並ぶ患者たち。病室で寝ている入院患者たち。
Drの札がかかったドア。電話で話す声が聞こえてくる。
白衣を着た中堅の医師(人間)がオフィスで電話をしている。相手は田舎の診療所の医師だ。二人は同期の医学部卒で、何でも腹を割って話し合える友情が電話線のように二人を結んでいる。
しかし今話し合われているのは切羽詰まった患者の容体についてだった。
『クランケは今は安静にしているがいつ発作が起きても不思議じゃない危険な状態だ。』
田舎の医師は患者が心底まずい状態であることを証明するように必死の声だ。
「何とかこっちに移送できないか?こっちなら設備も整っているんだが。」
都会の医師もまた必死だ。彼らには病人を救う力もあればそれに伴う義務も苦痛もある。
『無理だ。なんたってこっちは田舎だ。都会まで行けるまともな道路も無いじゃないか。しかもこっちには車も無い。』
沈黙。どうしたものかと都会の医師は空いた手で頭を抱えた。
「困ったな。」
絞り出したような声が困惑を現していた。
『何とか特効薬をこっちに送ってもらえんか?』
特効薬はあるのだ。しかしそれは都会の総合病院にしか無い。
「そっちの村に行くには砂漠を通らなきゃならん。盗賊も出る。そんな中、特効薬を運ぶ奴がいるかどうか」
絶望か?都会の医師はこうべを垂れた。なんとかできないものか。
「私に、一人だけアテがあるわ。」
いつの間にか部屋にいた女の艶っぽい声が都会の医師の耳を捉えた。
医師があらためて目を開け、顔を上げると、真っ赤なドレスを身にまとった謎の美女が妖艶な微笑みを浮かべていた。
都会の地下洞窟。むしろ魔窟。薄汚れた魔王のようなパンダが足を投げ出し壁にもたれて寝ている。いや、目をつぶって瞑想していると言ってもいい。何を考えているのか。さっき喰ったステーキ肉のことか?パンダが肉なんか食べるのか?この際そんなことはどうでもいいのだ。パンダにも休息は必要だ。
そんな地獄のような汚物にまみれた魔窟に、カツコツと近づいてくるハイヒールの音。全く場違いな赤いドレス。女の影。
化粧の匂いと濃厚なフェロモンをふりまきながら赤いドレスの美人がパンダの前で止まる。 怪訝そうに目を開けるパンダ。その相手に一瞬驚くがすぐにたしなめるような表情に変わる。
「ここはお前みたいな表の世界に生きる人間の来るところじゃねえ。さっさと帰りな。」
言いつつまた目をつぶり、居眠りを決め込もうとしたパンダ
「あなたにお願いがあるの。ある人が田舎村の診療所で大病で苦しんでいるの。そこへ都会の病院から特効薬を運んでほしい。途中砂漠もあるし盗賊も出る。」
その声も艶っぽく、その懇願に普通の人間の男ならくらくらっと二つ返事でOKしてしまいそうな声にもパンダはクールだ。
「俺は人助けはしない主義だ。」
そんなこと言わないで。言外に潤んだ美女の目が訴える。
「患者の命にかかわることなの。これはあなたにしかできないことなのよ。」
ふん、とひとつ鼻を鳴らし、やや顔を斜めに構えたパンダは、しつこい女だ、と言わんばかりだ。
「目障りだ帰ってくれ。」
腕組みをした美女が腕を解いて、ハンドバッグの中から何かを取りだした。
「これが患者の写真よ。次に発作が起きれば命は無いわ。」
そう言いながら美女はパンダに写真を押しつけた。思わず美女の白魚のような手をはらいのけようとしたパンダ。
「何だそんな面倒なことは俺は…」
その瞬間、パンダは見てしまった。写真はまだあどけない人間の幼い男の子の笑顔のアップだった。年の頃5歳、といったところだろうか。パンダの目が大きく見開かれる。
これは…
瞬間、パンダの脳裏に子供達の歓声が聞こえてくる。ガラスの向こうに鈴なりになっている子供達。1人残らず笑顔ではちきれそうだ。その目はみんな生き生きと輝いている。
「わーっ、しろくろだー!」
「かわいー!」