小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」
ただ書く人
ただ書く人
novelistID. 35820
新規ユーザー登録
E-MAIL
PASSWORD
次回から自動でログイン

 

作品詳細に戻る

 

過去をビールに流す

INDEX|1ページ/3ページ|

次のページ
 
 親は無条件に子を愛する、などというのは妄言だ。これはおれ自身の体験からはっきりといえる。父は知らないので語ることはできないが、母はおれを愛していなかった。
 しかし、テレビやインターネットのニュースを見ればひどい母親などありふれているようで、おれの母はそこまでひどくなかったな、と思わせられる。まるで愛情を感じさせなかったが、母としての義務は果たしていた。いつも食事は提供されていたし、服や靴も与えられていた。洗濯もしてくれていた。学校で必要な教材を買ってもらえない、ということもなかった。時には兄からのおさがりを使うこともあったが、それは兄がいる弟ならば当然のことだろう。母子家庭で決して裕福ではなかったが、不自由な生活は送っていなかった。ひどく折檻されるようなこともなかった。稀に叩かれることはあったが、怪我を負うほどではなかったし、タバコの火を押しつけられたり柱に縛りつけられたりするようなひどいことはされていない。
 では、どうして愛されていなかった、と感じるのかといえば、具体的な例を挙げるのは難しい。ただ、母がおれに感情を向けたことはほとんどないのだ。
 母は水商売をしていたため、家で顔を合わせることは多くなかった。同じ食卓で食事をとることは週に一度あったかどうか、という程度だ。そんな週に一度の機会におれが味噌汁をこぼして母に頭を叩かれたことがあった。母がおれに向けた感情といえば、そういった時の怒りの感情くらいのものだ。褒められたことなど一度もない。憎しみのような感情をぶつけられることもなかった。母の前でおれは、存在しているのかいないのかわからない人間だった。
 それでも悪い母親ではない、という人もいるだろう。実際その通りだ。おれはもっと母に感謝するべきなのかもしれない。しかし、三十歳になった今になっても感謝の気持ちなど湧いてこない。もちろん、感謝の言葉を伝えることもない。そもそも母が現在どこに住んでいるのかを知らない。生きているかどうも知らない。おれは母にもう十五年会っていないのだ。
 だが、会わなければならないのだろう。
 先日兄が死んだ。自殺だった。いったい兄が何に悩み苦しんでいたのか、おれにはわからない。だからこそ悔やみ自分を責めている。
 兄はおれにとって唯一家族と呼べる存在だった。おれも兄も父の顔は知らず、そもそもおれたちが同じ父の子かどうかもわからない。母のことは、おれを育ててくれた人だとしか思っていない。
 おれと違って母は兄を愛していたが、兄は母を愛していなかった。むしろ嫌っていた。それは母のおれへの態度のせいだった。兄は、母がおれのことをまるで気にかけないのを、ずっと苦々しく思っていたらしい。

 おれが中学三年生になったばかりの春のこと。兄は三つ年上なので高校三年生になったところだった。中学校に提出する進路希望の書類に保護者のサインが必要だったので、おれは母にそれを頼んだ。
「高校行くの? もう家を出たら?」といいながらも母は書類にサインをした。
おれは何も答えずに母から書類を受け取ったが、その場にいた兄が母に突然いった。「じゃあ出ていこう」
それを聞いたおれと母が首をかしげて兄を見ると、兄は母に顔を向けて言葉を続けた。「おれが高校を卒業してノブが中学を卒業したら、おれたちは出ていくよ」
おれの久信(ひさのぶ)という名前から、兄はおれのことを「ノブ」と呼んでいた。
「たーくん、あなたはいいの」母は急に甘ったるい声を作って兄にいった。
兄は武(たける)なので「たーくん」だ。
「いや、もう決めたんだ。おれは高校を卒業したら家を出るつもりだったし、それにノブも連れていく」といってから兄はおれを見た。「ノブ、それでいいだろ?」
兄からそのような話を聞いたのは初めてのことで戸惑ったが、うれしい提案なのでおれは顎で喉を叩くように素早く数回頷いて答えた。
「大学はどうするの?」母は少し狼狽しつつも依然媚びるような猫なで声で兄に訊いた。
「行かない。前にもそういったよ」
「今どき大学にも行かないんじゃ、将来仕事なんてないわよ」
「あるよ。仕事なんていくらでもある」
「ねえ、お金の心配は要らないのよ。たーくんを大学に行かせることくらいできるから」
「じゃあ、その金でノブを大学に行かせてよ」
「久信のことは関係ないでしょ」
「あるよ。ノブはおれより勉強ができるんだし、こいつを大学に行かせたほうがいい」
「だからって、たーくんが大学に行かない理由にはならないじゃない」
「そもそも、おれは大学に行きたいだなんて思っていないよ。ただ、この家を出たいだけだ。ノブもいっしょにね。ノブとふたりで生活するんなら、行きたくもない大学に行くより働いたほうがいいじゃないか。そうしないと生きていけないしね」
おれは兄と母のやりとりを冷や冷やしながら聞いていた。母は段々苛立ってきているようで、もう甘い声は出していなかった。
「だから久信のことは関係ないっていってるでしょ」語気を強めて母がいった。
「何でだよ。おれはノブを連れていきたいんだよ。関係あるだろ」
「久信が家を出たいんなら、勝手に行かせればいいじゃない」
「ノブが出たいんじゃなくて、おれが出たいんだよ」
「ダメ。たーくんはわたしの子でしょ」
「ノブは違うのかよ」
「ええ」
 母のこの言葉ははっきりと記憶している。おれは母に「わたしの子」であることを否定されたのだ。愛されていないことはわかっていたが、それでも衝撃的な言葉だった。母とおれは血が繋がっていない、という可能性も考えられるが、現在知る限り少なくとも戸籍上は養子などではない。
 その時のわたしは、血が繋がっているのか、戸籍上はどうなのか、といったことは考えず、ただ母の言葉に驚き妙な焦燥感に襲われていた。そして、母の返答は兄も仰天させたようだった。
「へ……」という声を上げたあと、兄はしばらく言葉を詰まらせた。
それから兄は母を睨みつけていった。「じゃあ、あんたはおれの母親じゃないな。ノブとおれは兄弟だ。ノブがあんたの子じゃないなら、おれもあんたの子じゃない」
 兄が母を「あんた」と呼んだことに、おれは再び驚いた。両者を見ると、母は何かをいい返そうとしながらも言葉が出ずにただ唇を震わせており、兄は自分より頭ひとつ分身長が低い母を蔑んだ目で見下ろしていた。柔和で優しい兄のそんな姿を見たのは、この時が最初で最後だった。
 それからの約一年間はおれの人生で最もつらい時間だった。兄と母は時折いい争っていたが、やがてそれはなくなり、母が家にいる時間は少なくなっていった。こんなことになったのは自分のせいだ、とおれはいつも黙って自室に籠っていた。
 そして、おれと兄は家を出た。兄は高校を卒業してから市の職員として働き始め、おれは兄とふたりで住むアパートから高校に通った。もちろん、兄に甘えるつもりはなかったのだが、結局世話になりっぱなしだった。おれは週に三回のアルバイトをしながら高校に通い、さらにその後は専門学校にまで通わせてもらった。そのおかげで現在勤めている会社に就職できた。
作品名:過去をビールに流す 作家名:ただ書く人