ウロボロスの脳内麻薬 終章
「うるさい、黙ってろバカ犬!」
『犬と呼ぶなと言うとろうが!」
「バカはいいのかよ!」
「ねぇ二人とも……、何シテルのかな?」
「──はっ!」『──はっ!』
ひょっこりと下駄箱の影から顔を出した儚に、隠れていた白髪の少年と、その右手にはまった犬のマペットだった。
「あっ、えっと、あっと──あっ、これ!」
「はぅっ」
困ったハッカは、咄嗟に右手を儚の眼前へ突き出した。
「真神サマ」
『儚』
その隙間は三センチほど。
「こいつをオマエに、返す」
「えっ……できるの、そんなの」
ハッカは遠慮がちにコクリと頷いた。
「こいつは、亜鳥とデミアンの仲立ちでまだぼくのところに残ってるだけだから……ホントはオマエの中じゃなきゃ消えるんだ。オマエといっしょじゃなきゃ、ダメなんだ」
「そう……なの?」
儚は真神へと問いかける。
『如何にも』
「真神サマ……儚のところに戻ってきてくれるの?」
『儂に、お前の傍ら以外に何処へ行けと言うのだ、儚よ』
「真神……サマ」
「オマエもぼくも、頭の中はまだへびつかい座ホットラインにつながってるんだ。だから気持ちを合わせれば、心を一瞬でもいいからいっしょにすれば、こいつはオマエに帰ってくる」
心をいっしょにする──なぜだかその一言が、不意に儚を不安にさせた。
「手を出して」
若干の躊躇いを見せながらも、儚は言われるがままに手を前へと差し出した。
するとハッカはその手をそっと握ってくる。
「はぅ」
思わず声が零れた。
片方はハッカの白くて柔らかい手が、もう片方は真神をはめた手が。もしかしたら自分はまだ夢を見ているのかもしれない。あのハッカが自分から手を握ってきてくれるなんて。
「目を閉じて」
目蓋を閉じると、手からの脈動と温もりが際立って伝わってきた。少し湿っていて、爪のまわりにちょっとだけささくれ立った場所がある。
鼓動がみるみる速くなる。呼吸はどんどん荒くなる。
いつの間にかハッカよりもずっと手が汗で湿っぽくなっていた。
すぅー……ふぅ……。
ふと、耳に涼やかな息の音が撫でた。ハッカはとてもゆっくり息を吸って、そして吐いている。
「すぅー……ふぅ……」
儚も自然、その呼吸に引き寄せられる。いつしか二つの呼吸は一つになっていた。
すると二人の耳の奥から踏切の音が聞こえてきた。次に電車の車輪がレールを滑らせる音、揺れる音、車窓から流れる風の戯れる音。
そして目蓋の裏に、向かい合った座席に座る、自分たちの姿があった。
すると車輌の奥から、ギシギシギシと不可思議な足音が聞こえてくる。
『儚』
と呼ばれて顔を横へ向けると、そこには大きくて立派な毛並みを揃えた、一匹の狼が立っていた。
「ふぅ……」
申し合わせたように、二人は目蓋を開けた。すると真神のマペットはハッカの右手から、儚の右手へと移っていた。
「真神サマって……本当はあんなにかっこよかったんだね」
『当然であろう、儂はお前の、お前だけの──守り神(わし)だからな』
「真神サマ」
二人の世界に浸る儚と真神をよそに、ハッカは一人昇降口前を降る階段にいた。
「あっ…………ハッ、くん」
小さな背中に投げた言葉。少年はビクリと震えた。それから数秒後、少しだけバツが悪そうに振り返る。
「こんな夕暮れに、小学生を……、子供を一人で帰らせるつもりかよ」
「え?」
今度は儚の肩と頭がピクンと跳ねた。
「帰る場所が同じなら、その……友達というか、家族というか……、その、とにかくいっしょに帰るのがフツーだろ!」
夕焼けで、顔はもちろん耳まで真っ赤にさせながら、少年は手を差しのべた。
堪らず少女は少年へと駆け出し、そして飛び込んだ。
「ハッ────────────くーーーーーーん!!」
「うわっくぅ!」
「はぁっ、はぁっ、ハッくん、ハッくん!」
「ひゃあっ、指なめるなっ! 気持ち悪っ! って、どこ触ろうとしてんだこのヤロー!!」
「えー、だってこれがフツーなんでしょー?」
「こんなのがフツーなわけあるかっ!」
「ハッくぅぅん、ハッくぅぅぅん」
「ウザっ、つうかキモっ!」
そう言うと同時に、ハッカは儚の太もも横へ痛烈な蹴りを入れた。
「はうっ!?」
儚はその場に倒れ崩れ、神経に入った衝撃で身体が麻痺して動かない。
「痛いよぉ……、動けないよぉ……」
儚は涙を流し顔をボロボロにさせる。
「知るか、一生そこで寝てろ」
「ぐずっ……ハッくぅぅぅん」
† † †
「だからひっついてくるなようっとおしい」
「うわぁ~ん、だって陽が落ちて暗いんだもの」
「嘘こけ、ネオンでめちゃくちゃ明るいだろ。というかもう着いたぞ」
二人はもう祈り屋のすぐ眼の前まで来ていた。今日は永久から仕事があると言われていたため、学校が終わったら直で教会に行くように言われていた。それが随分と時間を食ってしまった。優しい永久はともかくとして、厳しい唐鍔牧師からは折檻(カミナリ)をもらうかもしれない。ハッカはそんな覚悟で胆を決め、メメント・モリの門をくぐり、重たい樫のフレンチドアを開けた。すると、
──ハレルヤ!!
と、口を揃えて幾人もの執事(ホスト)たちが祝福の言葉を投げかけると同時に、シャンパンの栓を音とクラッカーが弾ける音の二重奏が鳴り響いた。
あっという間にハッカと儚はシャンパンまみれのカラーテープまみれになってしまった。
「へ? あ? 何なの?」
『何事、敵襲か!』
「あうあう、あうあう」
ハッカも真神も儚も、一様に眼をパチクリさせたまげる。
「これは君らの歓迎パーティーさ」
執事(ホスト)たちの間を掻き分けて、みなより背の低い永久が三人の前へやって来た。
「歓迎パーティー?」
「ま、正確には洗礼式だ」
そう奥から声が響くと、執事(ホスト)たちは一斉に中央の道を空けた。
そこからいつもの黒いスーツとは真逆の純白のスーツを着こなした唐鍔牧師が歩み寄ってくる。
「仮の、だけどな」
「仮の……洗礼式?」
「うちの宗派だと正式な浸礼(バプテスマ)は一四歳以上のちゃんとした分別がつくまで勝手にやっちゃいけない規則になってるんだけど──」
「これはお前たちがわたしたちのファミリーになる儀式だからな、細かいこたぁいいんだよ。クリスチャンじゃないお前たちには神の代わりにわたしが親になってやる」
「そんで俺たちが兄弟、ブラザーさ。そうだろみんな!!」
──応ッ!!
そろって執事(ホスト)たちが首肯すると、そのどよめき礼拝堂(ホール)はわずかに揺れた。
「それじゃあまず清き聖なる水でその身にたまった穢れ不浄、浮世の垢を洗い流してやれ!」
と唐鍔牧師がパチンと指を鳴らし合図すると、執事(ホスト)たちは一斉に手に持ったシャンパンをハッカと儚に浴びせてきた。
「どうだ、一本五万の白のドンペリ、しかも一〇本! 最高の洗礼(シヤンパンシヤワー)だろ? この世でもっとも高価な聖水だ」
「うわっぷ!」
ハッカはあたりに立ち込める酒の臭気にむせそうになる。
「はーい、じゃあ次、お待ちかねの按手礼のお時間だ」
「よっ!」
「待ってました」
「死ぬなよ、お前ら!」
作品名:ウロボロスの脳内麻薬 終章 作家名:山本ペチカ