ウロボロスの脳内麻薬 第八章 『スレチガイ交差点』
「……めんな、さい」
『あん?』
「ごめんなさい」
『オイオイ、男の子が命乞いかい?』
ハッカは茶化すカレルレンとは別の方を見ていた。
「ごめん……、儚。ぼくは……オマエの特別には……、なれそうにない」
「麦ちゃん……?」
「オマエはきっと、自分を守ってくれる、縛ってくれる絆とか、大切な約束とか…………そんな、そんな当たり前でありふれたものがほしいんじゃないかって、ぼくは思う──かはっ」
また、血を吐いた。消化器系の内臓の出血が食道を逆流している。腹部の神経は鈍麻にできている。だから侍の切腹も簡単には死なない。が、腹を貫かれた人間が尋常であろうはずがない。
「オマエの特別になれるかなんて……ぼくにはわからない。限られた物と想いは、きっとみんながみんな、分け合うことなんてできないんだ。
ぼくがどうしようもなく空っぽな気持ちも、オマエがどうしようもなく孤独な気持ちも、どうしようもないくらいに…………分け合うことなんてできないよ」
それがハッカの出した答え。自分は誰も理解できず、また自分を理解できる人間もまたいない、というハッカがまだ空っぽだった頃と何ら変わらぬ答え(モノ)だった。
「麦ちゃん、麦ちゃん!」永久は変形させず基底状態(アタツシユケース)のままのヒルベルトを結界に叩きつけた。「おい、お前も何かしろよ! あの子たちの身内だろ!」
永久が視線を向けた先にいたのは茫然自失として首を項垂れる真神だった。
『いったい自分がどこで何を間違ってしまったのか、それがわからないのだ』
「何の話だ!」
『いや、最初から間違っていたのかもしれない。儂という存在が、この大顎真神が、儚を狂わせた原因かもしれない。教えてくれ、守るとはいったい何なのだ。絆とは、約束とはいったい何のためにあるのだっ!』
「かけ間違えたボタンは……」
不意に、唐鍔牧師が近づいてきてそっと、右手を結界に添えた。
前後に大きく開かれた足の後ろ、左足が地面のアスファルトに直径三メートルのくぼみが生まれる。その踏み込みで発生した〝勁(けい)〟は背筋を伝い右腕に収束して拳から放たれる。
──寸勁(ワンインチパンチ)。
途端、結界の四方に亀裂が走る。
常人の眼には、おそらく彼女の動作は卵を握るように開いた手を一瞬で閉じただけの動作(ワンアクシヨン)。しかしその掌には空間凝縮を極限にまで高め、量子級超重力天体(マイクロブラツクホール)の生成がおこなわれるほどの縮退現象が起きていた。一瞬で生み出した後、また一瞬で蒸発させるという最小限動作。そのための寸(すん)勁(けい)。
結界にどれだけ高度な空間断絶効果があったとしても、この三次元宇宙においてブラックホールを防ぐ手段があろうものか。
「かけ違えたボタンは──」
彼女は見返り様に懐から出した〝More〟銜え、アンモナイトのレリーフが彫られたジッポーを擦った。
「またかけ直せばいい、冷めちまったスープはまた温め直せば済むことだ。わたしの見立てじゃ、少なくともお前らはそれができないほど子供でも愚かでもないはずだ」
背中では結界が粉々に砕けながら崩れていた。
「なあ、そうだろう?」
「はぁ、はぁ、はぁ……だから」少年に限界が差し迫っていた。それでも、「だからごめん……ぼくにはオマエをわかってやれません。ごめんなさい…………でした」
しゃべる度、一言一言、言葉を紡ぐ度、ハッカの顔が蒼褪め生気が失われ、代わりに死の色が濃厚に鎌を寄せる。
すると儚は動いた。ハッカの腹に食い込ませていた腕を後ろへ、肘を手前へ引いたのだ。その表情は白髪化した前髪で隠れていたが、その頬には涙の筋が二筋伝っていた。
でも。
と、途切れかけていた語気を強めると同時に引き抜こうとしていた腕を、自身の腹を貫いた儚の腕を、あろうことかハッカは再び腹の方へ引き寄せ返したのだ。
オマエのそばにいることはできる。
それが少年の出した真実(こたえ)。
「オマエのことなんて全然わかんないけど、ゼンゼン、ゼンゼン、これっぽっちもわかんないけど、わかろうと努力する。がんばる。だから今から、ここからお願いします」
ぼくの名前は麦村ハッカ。キミの名前を聞かせてください。
下から臨む、強い瞳だった。
パサリと儚の前髪が揺れる。その奥の双眸が呼応する。ハッカの目線と言葉に、呼応する。
「儚の名前は」
少女の白かった髪が毛先から根元へと黒へ戻っていく。
「儚の名前は、三千歳儚っていいます」
その瞬間、儚の瞳が黒くなると同時に、周囲全天を覆っていた灰色のノイズが消え失せた。
スクランブル交差点の信号が一斉に赤から青へ様変わりする。
数え切れない人ごみの中で、少年と少女はスクランブル交差点の真ん中に立っていた。
四五秒────それが、現実で経過していた時間。赤信号から青信号へ変わる時間。二人が再び出逢うまでに要した時間。二人の新しい時間が、生まれる時間。
作品名:ウロボロスの脳内麻薬 第八章 『スレチガイ交差点』 作家名:山本ペチカ