ウロボロスの脳内麻薬 第二章 『ケータイ交霊術』2
「こまったことなんて別にない。ゼンゼンない」けど、と首を項垂れる。「何もないのが、なぜだか無性にツラいんだ。ここの中が空っぽだからかな、ぼくには〝特別〟って呼べるものがない。〝普通〟しかないんだ」
心が常にフラット。
自己をふくめたすべてを等しく同価値と捉えるがゆえに、すべてが無価値という矛盾。
「おかしいのかな、やっぱり。変なのかな、ぼくは」
「ちがうよ」
とっさにハッカは「え?」と、顔を上げた。
「それはきっと、さびしいってことじゃないかな」
「ぼく、が?」
「そう」
「そんなこと……」
「なくなんてないよ」亜鳥はおもむろにハッカの頬に手をのばす。「独りぼっちでさびしくない子なんて、いないんだから。ね?」
その時、ハッカの胸の裡で焦げるような衝動が湧き起こった。
〝この人にもっとぼくのことを言いたい〟
〝この人にもっとぼくのことを知ってほしい〟
〝この人にもっとさわってほしい〟
〝この人の胸の中で──〟
「かなしいの?」
「え?」
「だってほら、こんなに目に涙をためて」
亜鳥はハッカの頬に触れた手で、目尻にたまった大きな雫を指に取った。
〝この人の胸の中で泣いてしまいたい〟
けれどそれができなくて、ハッカはぐっと下唇を噛み、俯き、両手を膝の上で握り締めた。
するとしばらくして、座席のクッションが揺れ、ふと顔を上げてみると、隣には亜鳥が座っていた。
「ごめんね、ちょっと気分が悪くなっちゃって。ほら、景色と逆向きだと酔うことあるよね? それにこの揺れ」
「……うん」
ハッカが頷いた瞬間、窓の外にあった景色が消え、周囲が暗闇に包まれた。どうやらトンネルの中を走行しているらしい。天井に近い位置の壁に据えつけられた照明(ランタン)が、車内を薄ぼんやりとした明かりで照らす。
それから十数秒か、はては数分か何かを待つ時の独特の時間感覚に揺られている間に、電車はトンネルを抜けた。
次の瞬間、四角い窓ガラスが目の醒める〝蒼〟で埋め尽くされる。
竹林だ。鬱蒼とした無数の青竹の群れが窓の外に広がっていた。
理由は定かではないが、どうやら山を抜けるはずのトンネルの先は、どうしてか山の真っただ中だったらしい。電車は竹で挟まれた畦道ほどに奥まったレールを走りながら、緩やかな勾配を少しずつ登っている。
窓から流れ込んできた空気は竹特有の青臭さより、むしろほどよい湿気をふくんだ心地よい風だった。また電車の騒音で隠れがちだが、風でしなって竹と竹がぶつかる不規則なシシオドシが遠くで鳴っていた。
「人生の砂漠を私は焼けながらさまよう、そして自分の重荷の下でうめく」
窓の外を見ていたハッカがふっと隣に視線を移すと、亜鳥が一冊の文庫本を開いていた。
「だが、どこかに、ほとんど忘れられて花咲く涼しい日かげの庭のあるのを私は知っている。
だが、どこか、夢のように遠いところに、憩いの場が待っているのを、私は知っている。
魂が再び故郷を持ち、まどろみと夜と星が待っているところを」
そう言い終えて、彼女はハッカに掌を差し出した。
「切符」
意味がわからず、ハッカは一瞬固まった。
「切符を見せて。電車の切符」
それでようやく意図が伝わり、ハッカはしずしずと亜鳥の掌に載せた。亜鳥は切符をしばらくじっと眺めていると、当たり前のように文庫本の間に栞として挟んでしまった。するとほぼ同時に、電車次の停車駅へと停まるために減速をはじめる。
「あなたは次で降りて」
「どうして?」
「終着駅──虹蛇ノ杜へ着いてしまえば……、もうそこから後戻りはできないから」
「でも、亜鳥はまだ乗ってるんでしょ」
「そう。だから私はここから出られない」
え──と、ハッカが言いかけると、電車は竹林の合間にひっそりとそびえる東屋のような駅舎と、石垣のプラットフォームの駅で停車した。
亜鳥はハッカの手を取り、口の開いたドアへとつれ出した。
「これを」
プラットフォームと電車の境界越しに、ハッカは小さな金属片を手渡される。
「ネジ巻き?」
それはとても旧そうで、くすんだ真鍮でできていた。小さいはずなのに、不思議な重量感が掌にのしかかる。
「それはこの鳥籠(シンギングバード)の鍵」
「〝鍵〟?」
「鍵はもともと発(ゼン)条(マイ)機関から生まれたものだから、旧い鍵は螺子巻きと同じカタチをしているの。二つは兄弟。鍵は〝静〟を、螺子巻きは〝動〟のために作られたもの。どう使うかは持っている人次第」亜鳥は螺子巻きを持ったハッカの手を握らせた。「でも少なくとも、この停滞(と)まった世界から出るのに必要だから……、これはハッカが持っていて」
何か言わなくては、ハッカは懸命に口を動かした。
「あ──う、ぁ」
けれどもそれは言葉にはならず、ただ無意味な音となるばかり。
口が渇く。喉が軋む。空気が重い。頭にあるはずの言葉が、鉛をまとって沈んでしまう。
そんなしどろもどろなハッカを他所に、亜鳥はそっと頭を撫でた。
「わかるから。言葉が拙く、どんなに中途半端でも、その中にある気持ちが本物なのは……、わかるから。だから気にしないで」
その言葉に、ハッカは言葉をなくした。だから何も言わなかった。だから何も言えなかった。
ドアが閉まる。
二人の目線が横軸にずれていく。
《へびつかい座ホットライン》のアイボリーの車体が竹の間でみるみる小さくなっていく。直それすらも見えなくなっても遠く竹林のどこかでガタンガタンとレールを走る音が遠雷のように響き続けた。
ハッカは一人だった。
山の中の廃駅でたった独りぼっち。
今まであれほどまぶしかった夕陽も、もうここにはほとんど届かない。
竹林で残響するシシオドシの音色に身をまかせながら、
はたとその場で空を仰ぐ。
無数の笹の隙間からほんのわずかのオレンジ色が、ハッカに笑いかける。
それを見ているとなんだか目頭が熱くなって、目蓋がどうしようもなく重たくなって──、
ホロ、と、涙が頬を伝った。
作品名:ウロボロスの脳内麻薬 第二章 『ケータイ交霊術』2 作家名:山本ペチカ