ウロボロスの脳内麻薬 第二章 『ケータイ交霊術』2
ハッカは無人駅にいた。
足元のコンクリートの間からは無数の雑草が顔をのぞかせている。
まるで手入れがほどこされた痕跡のない、うらぶれたプラットフォーム。ハッカはそこに設置された埃ですすけたベンチに腰かけていた。
無人駅のすぐ前には夕陽で真っ赤に染まった海が渺々(びようびよう)と広がっている。ハッカはそれをただぼんやりと無感動な面差しで眺め続けていた。
寄っては引いて、引いては寄って。水平線の果ての果てまで黄昏の絨毯(ベルベツト)が横たわったこの世界では、囁くような潮騒でさえ、ひどく近くに聞こえてならない。
まるで何年も前からそこに座っているかのように、少年は風景に同化していた。ハッカ自身さえも、自分が生まれた時からここに座っているとさえ錯覚するほど自然体だった。
けれどもその背筋がのびた姿勢は、今しがた駅に着き、数分後には到着する列車にいつでも乗車できる様子でもあった。
当のハッカでさえも、自分がいったいいつからここでこうして座っているのか、まるで判然としない。ここに来るまでの記憶がないのだ。いや、記憶を検索するという経験そのものが、今のハッカには欠落している。
感覚・認識・意識・人格が──自分の内面を形作るありとあらゆるものが、時間と空間にとろけてしまっているような、不可思議なクオリア。それが今ハッカの中にある形なき実体だった。
ハッカの頭上では屋根の裏側についた電灯がチカチカと朧気な明かりで光っていた。
昼(ひる)行(あん)灯(どん)、すでに明るい中で光る胡乱な微明。その曖昧さは今のハッカより、むしろこの世界を象徴していた。
鳥と卵、どちらが先に生まれたかと思考するのさえ億劫になるほどの虚実皮肉さ。そこには始まりも終わりもない。
そんな中でただ、少年は風化を待つのだろうか。
「……っ」
と、その時だった。海岸線と山にそって傾らかなカーブを描く線路の奥。その先にハッカは近づいてくる物体を認めた。
秒間送りのフィルムを回すように、物体はあっという間に押し詰めて来て、それがすぐに二輌立てのローカル電車なのだと気づく。
電車はハッカのいる駅に近づくにつれゆっくりとスピードを緩め、最後に軋む車体を揺らしながら錆びたレールで騒音を撒き散らしてぞんざいに停車する。
その車輌は落ち着きを感じさせるアイボリー色に統一されていた。けれど全体的にこの駅同様に雨風に汚れていて、所々剥げた塗装からは赤錆も浮いている。
悪く言えば古臭く、良く言えば古色蒼然とした趣きある佇まいだった。
かしゃああぁぁぁ。
電車のドアが口を開ける。
無人駅であるこの駅には、当然行き先を告げるアナウンスはなく、プラットフォームにも時刻表、その他に類似する物は設備されていない。行き先を示す物。それは電車のアナログパネルに記された〝へびつかい座ホットライン 虹蛇ノ杜行き〟という見慣れない鉄道線名と駅名だけだった。
ただ呆然と無人駅に腰を据えていたハッカは、この列車に乗ればいいのかがわからず、そのまま座った姿勢を崩さずにいた。
「……あれ」
不意に、ハッカは握った右手に違和感を覚える。
そっと開いてみると、そこには切符が一枚、所在無さげに汗で湿っていた。
切符には確かに今日の日付で〝へびつかい座ホットライン 虹蛇ノ杜行き〟と印字で打たれている。
ハッカはすっくと立ち上がり、埃がついた尻を叩いてから目の前の電車──《へびつかい座ホットライン》に歩み寄った。電車とフォームには大きな隙間が空いていて、ハッカはそれを軽く足元のコンクリートを蹴るようにして跳び乗った。
電車の中はまた外以上に旧い匂いで満ちていた。床は木製の板が張られていて歩く度にキシキシとうめきを上げ、座席マットのベルベット生地は表面の毛がはげ日光のせいでむらのある変色をしている。
しかし一番目を引くのは、ハッカ以外の乗客すべてが狐の和面を被った子供だということ。みな一様に携帯電話を手にし、一心にキーを叩いていた。中でも異様だったのは、
「あまねくセカイの片すみで──渇えた喉を掻きむしる」
「遍く世界の片隅で、渇えた喉を掻き毟る」
「あまねくせかいのかたすみで、かつえたのどをかきむしる」
異口同音。一様に口を酸っぱくして同じ文句を繰り返し言っている。
それでもハッカはさして動じることもなく、視線を右へ左へ振りながら空いている席を探した。そうして誰も座っていない二人座席の窓際に腰をかけるのと同時に、電車はゆっくりと駅から発進した。
揺ればかり激しいくせに車窓から流れる風景は存外遅く、またいつまで走っても代わり映えしない。くたびれて趣きのある車体、それに時代感を漂わせる装いに反することなく、この《へびつかい座ホットライン》はかなりの鈍行列車らしい。
通路を挟んで右の車窓から見えるのは、延々と続く砂浜と海岸線。その奥には夕陽を呑み込もうとしている茫洋たる海原。かたやハッカのすぐ横に張られた窓ガラスには、峰々がなだらかな稜線を描く深緑豊かな風光があった。
それらの光景を瞳におさめながらも、やはりハッカの面差しには血の気が薄い。生きているのを疑うほどに。
それからしばらく電車は海岸線を走っていたが、いつまで経っても日は沈まず、景色は一向に変わる様子はなかった。ただ海と山と夕陽があるだけ。それだけの世界。まるで世界そのものが移ろうことをやめてしまったよう。
呼吸をするのさえ気怠くなってくるような、むしろ意味などないような。規則的でありながらどこかつかみどころのなく響くレールの音と振動。カーブで鳴る車体を軋ませるブレーキ。f分の一のリズムが奏でる悠久の調べに飽きて、ハッカは窓を開けた。
夕方の冷えかかった、それでもどこかぬるま湯(ゆ)い風がそっと頬を撫でた。
潮の香りが車内にさっぱりとした彩りを添える。
それでもやはり、異形の狐面と携帯電話を手に一心に呪文を唱える子供たちの不気味さを払拭するには、まだずいぶんと清涼さに欠ける。
ひとしきり風に当たり体が冷え出した頃、ハッカは窓を閉めようと立ち上がった。するとその瞬間、電車がブレーキをかけた。ゆっくりと緩やかに。どうやら次の駅に停車するらしい。ハッカは窓を締めず、そのまま席に座した。
完全に停車したところで、窓から吹き込む風がやむ。
横には無人駅、と言うよりむしろ廃駅とさえ形容できるほどに打ち捨てられたプラットフォームがあった。敷き詰められた石畳は砕けて雑草にまみれ、駅舎の屋根には苔まで生い茂っている。
かつ……ぎし、ぎし、ぎし、ぎし、
こんな辺鄙な場所から乗車する客がいたのか、足音を連れた孤影が電車の中を進んだ。
ぎし、ぎし、ぎし、ぎし……ぼす。
孤影はハッカに向かい合った座席に腰を降ろした。
床が揺れ、電車が動き出す。
「♪~♪、♪~、♪~」
柔らかなハミングがハッカの耳を撫でる。流れるメロディはアレクサンドル・ボロディンの〝だったん人の踊り〟。
ハッカはおもむろに顔を上げると、そこには自身より幾分目上の少女が座っていた。
足元のコンクリートの間からは無数の雑草が顔をのぞかせている。
まるで手入れがほどこされた痕跡のない、うらぶれたプラットフォーム。ハッカはそこに設置された埃ですすけたベンチに腰かけていた。
無人駅のすぐ前には夕陽で真っ赤に染まった海が渺々(びようびよう)と広がっている。ハッカはそれをただぼんやりと無感動な面差しで眺め続けていた。
寄っては引いて、引いては寄って。水平線の果ての果てまで黄昏の絨毯(ベルベツト)が横たわったこの世界では、囁くような潮騒でさえ、ひどく近くに聞こえてならない。
まるで何年も前からそこに座っているかのように、少年は風景に同化していた。ハッカ自身さえも、自分が生まれた時からここに座っているとさえ錯覚するほど自然体だった。
けれどもその背筋がのびた姿勢は、今しがた駅に着き、数分後には到着する列車にいつでも乗車できる様子でもあった。
当のハッカでさえも、自分がいったいいつからここでこうして座っているのか、まるで判然としない。ここに来るまでの記憶がないのだ。いや、記憶を検索するという経験そのものが、今のハッカには欠落している。
感覚・認識・意識・人格が──自分の内面を形作るありとあらゆるものが、時間と空間にとろけてしまっているような、不可思議なクオリア。それが今ハッカの中にある形なき実体だった。
ハッカの頭上では屋根の裏側についた電灯がチカチカと朧気な明かりで光っていた。
昼(ひる)行(あん)灯(どん)、すでに明るい中で光る胡乱な微明。その曖昧さは今のハッカより、むしろこの世界を象徴していた。
鳥と卵、どちらが先に生まれたかと思考するのさえ億劫になるほどの虚実皮肉さ。そこには始まりも終わりもない。
そんな中でただ、少年は風化を待つのだろうか。
「……っ」
と、その時だった。海岸線と山にそって傾らかなカーブを描く線路の奥。その先にハッカは近づいてくる物体を認めた。
秒間送りのフィルムを回すように、物体はあっという間に押し詰めて来て、それがすぐに二輌立てのローカル電車なのだと気づく。
電車はハッカのいる駅に近づくにつれゆっくりとスピードを緩め、最後に軋む車体を揺らしながら錆びたレールで騒音を撒き散らしてぞんざいに停車する。
その車輌は落ち着きを感じさせるアイボリー色に統一されていた。けれど全体的にこの駅同様に雨風に汚れていて、所々剥げた塗装からは赤錆も浮いている。
悪く言えば古臭く、良く言えば古色蒼然とした趣きある佇まいだった。
かしゃああぁぁぁ。
電車のドアが口を開ける。
無人駅であるこの駅には、当然行き先を告げるアナウンスはなく、プラットフォームにも時刻表、その他に類似する物は設備されていない。行き先を示す物。それは電車のアナログパネルに記された〝へびつかい座ホットライン 虹蛇ノ杜行き〟という見慣れない鉄道線名と駅名だけだった。
ただ呆然と無人駅に腰を据えていたハッカは、この列車に乗ればいいのかがわからず、そのまま座った姿勢を崩さずにいた。
「……あれ」
不意に、ハッカは握った右手に違和感を覚える。
そっと開いてみると、そこには切符が一枚、所在無さげに汗で湿っていた。
切符には確かに今日の日付で〝へびつかい座ホットライン 虹蛇ノ杜行き〟と印字で打たれている。
ハッカはすっくと立ち上がり、埃がついた尻を叩いてから目の前の電車──《へびつかい座ホットライン》に歩み寄った。電車とフォームには大きな隙間が空いていて、ハッカはそれを軽く足元のコンクリートを蹴るようにして跳び乗った。
電車の中はまた外以上に旧い匂いで満ちていた。床は木製の板が張られていて歩く度にキシキシとうめきを上げ、座席マットのベルベット生地は表面の毛がはげ日光のせいでむらのある変色をしている。
しかし一番目を引くのは、ハッカ以外の乗客すべてが狐の和面を被った子供だということ。みな一様に携帯電話を手にし、一心にキーを叩いていた。中でも異様だったのは、
「あまねくセカイの片すみで──渇えた喉を掻きむしる」
「遍く世界の片隅で、渇えた喉を掻き毟る」
「あまねくせかいのかたすみで、かつえたのどをかきむしる」
異口同音。一様に口を酸っぱくして同じ文句を繰り返し言っている。
それでもハッカはさして動じることもなく、視線を右へ左へ振りながら空いている席を探した。そうして誰も座っていない二人座席の窓際に腰をかけるのと同時に、電車はゆっくりと駅から発進した。
揺ればかり激しいくせに車窓から流れる風景は存外遅く、またいつまで走っても代わり映えしない。くたびれて趣きのある車体、それに時代感を漂わせる装いに反することなく、この《へびつかい座ホットライン》はかなりの鈍行列車らしい。
通路を挟んで右の車窓から見えるのは、延々と続く砂浜と海岸線。その奥には夕陽を呑み込もうとしている茫洋たる海原。かたやハッカのすぐ横に張られた窓ガラスには、峰々がなだらかな稜線を描く深緑豊かな風光があった。
それらの光景を瞳におさめながらも、やはりハッカの面差しには血の気が薄い。生きているのを疑うほどに。
それからしばらく電車は海岸線を走っていたが、いつまで経っても日は沈まず、景色は一向に変わる様子はなかった。ただ海と山と夕陽があるだけ。それだけの世界。まるで世界そのものが移ろうことをやめてしまったよう。
呼吸をするのさえ気怠くなってくるような、むしろ意味などないような。規則的でありながらどこかつかみどころのなく響くレールの音と振動。カーブで鳴る車体を軋ませるブレーキ。f分の一のリズムが奏でる悠久の調べに飽きて、ハッカは窓を開けた。
夕方の冷えかかった、それでもどこかぬるま湯(ゆ)い風がそっと頬を撫でた。
潮の香りが車内にさっぱりとした彩りを添える。
それでもやはり、異形の狐面と携帯電話を手に一心に呪文を唱える子供たちの不気味さを払拭するには、まだずいぶんと清涼さに欠ける。
ひとしきり風に当たり体が冷え出した頃、ハッカは窓を閉めようと立ち上がった。するとその瞬間、電車がブレーキをかけた。ゆっくりと緩やかに。どうやら次の駅に停車するらしい。ハッカは窓を締めず、そのまま席に座した。
完全に停車したところで、窓から吹き込む風がやむ。
横には無人駅、と言うよりむしろ廃駅とさえ形容できるほどに打ち捨てられたプラットフォームがあった。敷き詰められた石畳は砕けて雑草にまみれ、駅舎の屋根には苔まで生い茂っている。
かつ……ぎし、ぎし、ぎし、ぎし、
こんな辺鄙な場所から乗車する客がいたのか、足音を連れた孤影が電車の中を進んだ。
ぎし、ぎし、ぎし、ぎし……ぼす。
孤影はハッカに向かい合った座席に腰を降ろした。
床が揺れ、電車が動き出す。
「♪~♪、♪~、♪~」
柔らかなハミングがハッカの耳を撫でる。流れるメロディはアレクサンドル・ボロディンの〝だったん人の踊り〟。
ハッカはおもむろに顔を上げると、そこには自身より幾分目上の少女が座っていた。
作品名:ウロボロスの脳内麻薬 第二章 『ケータイ交霊術』2 作家名:山本ペチカ