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頬を突き刺す風が柔らかくなり始めた今日、私は夜のバス停の小屋で途方に暮れていた。彼氏のと結婚式を前にした私は、本日、実家の方にお呼ばれされていた。彼の実家はとても田舎なので、当日は近場に来たら迎えに行くという彼の申し出があったが、私は田舎の景色を楽しみながら一人でゆっくり来るとそれを断ったのだ。もちろん彼に余計な手間を掛けさせたくないという気持ちもあったが、今となっては後悔しかない。駅に着いたばかりの頃の私は田舎の広大な景色に感嘆し、少しだけ歩いて景色を楽しみ、その後バスに乗ろうと考えていた。そして知らない土地を一人歩きした結果、私は道に迷う。とりあえずバスに乗ればなんとかなるかも知れないと考えた私は慌ててバス停を探し、やっとの思いでバス停を見つけた。だが時刻表が突きつける本日のバスはもうないという現実を目の当たりにし、驚愕と後悔の波が押し寄せ、絶望に飲みこまれた。そうして今に至るというわけだ。
 携帯も充電を怠ったせいで機能停止になっている。本当にどうしたらいいのだろうか。周りには民家の明かりが遠目にぽつぽつと見え、外灯が所々に立っている。最悪、どこかの民家まで歩いて助けてもらうしかないのだろうか。私はそんな考えを頭に巡らせながら小屋の中にしゃがみこみ、俯いてしまう。そのとき、小屋の前を一台の車が通る音がした。私はそれを聞いてある手段を思いつく。
「ヒッチハイクかぁ……」
 聞いたことはあっても実際にやろうと思ったのは初めてかもしれない。他に手段が浮かばなかった私は、とりあえず道路の脇に立つことにした。周りの様子を確認したところ、ちょうど一台の黒い軽自動車がこちらに向かって来ていることがわかり、心の準備をする。車が近づくにつれ、初めて行うことへの緊張と、ちょっと面白そうだという好奇心が高まる。そして意を決した私は、親指を高々と夜空へ突き立てた。

 しかしその決意もむなしく、車は私の前を通り過ぎていった。
「はぁ、やっぱりだめか……」
 やはりそう簡単にいくものではないのだろうかと、私は俯き、ため息をつく。そんな私の耳に、突如クラクションの音が届いた。私はもしやと思い、期待を胸に辺りを見回す。すると数十メートル先に先ほど過ぎ去ったと思われた黒い軽自動車が停車しているのを見つけた。私が急いで車へと走り寄り、運転席の窓際に立つと、窓が開く。そこには肩口まで髪を伸ばした女の人が座っていた。
「こんなところで何してるの?今日はもうバス来ないよ」
「えーっと、ですね……」
 思いのほかヒッチハイクがうまくいってしまったことで動揺してしまい、口ごもってしまう。そして私が答えるより先に、彼女が口を開いた。
「まあいいや、とりあえず乗りなよ。ああ、後ろは荷物があるから助手席にね」
「あ、はい」
 私は短く返事をし、彼女の言葉に従い車に乗り込む。中は随分とこざっぱりしていた。
「それで、どうしてあんなところにいたの」
 改めて問いかけられた私は、ことの顛末を彼女に説明した。私が話し終わると、彼女に「その場所まで連れていってあげるよ。地図かなんかある?」と言われたので、私は鞄の中から彼に書いてもらった簡易な地図と、実家の住所が書かれた紙を差し出した。彼女はそれらを受け取ると、車内照明を点け交互に覗き込む。その彼女の横顔を見て、私は彼女が年上であると感じた。彼女もおそらく私が年下だと感じたから、敬語を使わないのだろう。
 それよりも、あの簡単な地図と住所だけで、目的地がわかるだろうか。不安を抱えた私をよそに、彼女はしばらくの間それらに目を通しつつ、少し考え込む仕草をみせると、
「うん、ここなら私もわかるから連れて行ってあげるよ」
 そう言って地図と紙を返してくれた。どうやら私のはただ杞憂のようだった。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
 そう言うと、彼女は車の発進させようとしていたので、私は慌ててシートベルトを締める。
 動き始めた車の中で、彼女が声をかけてきた。
「ところであなた、名前はなんていうの」
「あ、はい、如月といいます」
「そう。私は夏海っていうんだ。よろしくね如月さん」
「はい、よろしくお願いします」
 夏海さんは運転中なので、こちらに顔を向けてではないが、明るい口調で話してくれた。
「しかし驚いたよ。あんなところに女が一人で突っ立ってるんだからさ」
「すみません。そんなつもりはなかったんですけど」
 確かに、あんなに暗くて人通りの少ないところに女が一人で立っていたら驚いてもしかたがない。ちょっとしたホラーだ。
「いやいや、いいよ。実は如月さん見つける前、運転中なのに眠くってさ。これはやばいって思ってたんだよね。だからおかげですっかり目が覚めたよ。ありがとさん」
 夏海さんは気さくで話しやすそうな人だと思う。多分悪い人ではないだろう。だがその言葉を聞いて、夏海さんに運転を任せることが少しだけ不安だと感じた私は、思わず苦笑いを浮かべてしまう。
「えっと、今は大丈夫なんですよね?」
「ごめん。正直、少し眠い」
 夏海さんには悪いが、この車から降ろしてもらって、他の車が通るのを待ったほうがいいだろうか。気が付けば私は身の危険を回避しようと、車を降りる口実を考えていた。
「なんてのは冗談だよ。まったく眠くないから」
「……冗談はよしてしてくださいよ」
「ごめんごめん」
 夏海さんは不安を煽っておきながら、楽しそうにカラカラと笑っていた。私はそんな彼女を見て、おそらく空気が重くならないように気を使ってくれたのかもしれないと思い、こういう人に出会えたことを嬉しく感じた。そして、一頻りして笑い終わった夏海さんは、
「でもほんとによかったよ。最近はこのあたり物騒でね」
 先ほどまでとは打って変わり、真面目な表情を浮かべそう言った。
「何かあったんですか?」
「少し前にさ、この近くで通り魔殺人があったんだ。犯人はまだ逃走中。被害者は刃物で刺されて殺されてたってさ。知らない?」
「いえ……知りませんでした」
 たまたまニュースを見逃してしまったのだろうか。そういう話は聞いたことがなかった。
「彼氏さんからも聞いてないの?」
 この言葉を聞いて私は疑問に思った。この辺りで事件が起きたにもかかわらず、私の彼氏はどうしてそんな危険な場所を一人で行動することを了承してくれたのだろうか。私が彼の立場だったらそんなことはさせない。
「何も聞いてません」
「そうなんだ。もしかしたら彼氏さんも知らなかったのかもしれないね」
 夏海さんはそう言って真剣な表情を崩した。
「そうですね……」
 もしかしたらそうなのかもしれない。だが、地元で殺人事件が起きたことを知らないということが本当にあるのだろうか。私はそんなことを考えたが、すぐにやめた。実家に行って彼に聞けばいいことだ。こうやって車にも乗せてもらっているし、そんなに気にする必要はないだろう。
「……」
「……」
 そこで一度会話が途切れてしまった。私は何か話のタネを探そうとしたが、特にこれと言ったものが思いつかなかったので、先ほど夏海さんが話してくれた事件についてもう少し聞いてみることにした。
作品名:正体 作家名:A.S