アイラブ桐生 第4部 47~48
また、声が聞こえました。
お弁当箱とお稽古用の包みのふたつを、
胸にしっかりと抱え込んだ『おちょぼ』が、
つくしが伸び、タンポポが咲き始めた土手の上で躊躇をしています。
見降ろした土手の傾斜の様子に、
少しだけ怖じけづいた気配が有りました。
それでも「おちよぼ」は、もう片方の手で、
はだける浴衣の裾を気にしつつ、おぼつかない足取りのままで、
土手の斜面をおそるおそると下り始めました・・・・
素足のままで、赤い鼻緒の下駄ばきです。
その様子を見かねて、源平さんが声をかけました。
「春ちゃん、そこは滑るからなぁ。
こっちから行くので、そんな恰好で無理をしないでおくれ。
下駄じゃ滑るし、足元が危なすぎるからのう。
なにかあってからでは遅すぎる・・・・」
源平さんが立ちあがり、
そう声をかけているそばから「おちょぼ」が足を滑らせました。
バランスを崩した「おちょぼ」は、斜面のほぼ中間部のあたりから、
停まるすべもなく、悲鳴をあげたまま、
勢いにまかせてこちらへ向かって駆け下ってきました。
悲鳴に反応して、受け止めようとした時にはもう、
「おちょぼ」は私のすぐの目の前でした。
辛うじて胸で受け止めましたが、
はずみを受けた勢いで、踏みとどまったのは
もう川まではあと数センチと言う、ぎりぎりの水際でした。
「相変わらず・・・春ちゃんは、
ほんとにやんちゃだのう!。
大丈夫だったかい、
どこかに怪我はないかのう?」
あきれながら事態を見守っていた源平さんが、
あわてて駆け寄ってきました。
「だいじょうぶどす。心配おへん。
すんまへん・・・・あんじょう、こけてしまいました。
でもお弁当だけはこの通り、ほら。セーフどす!」
受け止めた私の胸の中で、
「おちょぼ」がにっこりと笑顔をみせました。
しかし見開いたままの「おちょぼ」の黒い瞳は、
たったいま経験をしたばかりの
怖い思いを、正直に如実に物語っています。
目は、上気をしたまま、うっすらと涙さえ浮かべていました。
おびえたまま私の顔を見上げている、その固すぎる笑顔といい、
可愛い唇から洩れ続ける安堵の吐息といい、
『何がどうなったのかしら』と、
自分に起こった突然の出来事を、あらためて、
忙しく頭の中で再検証をしています・・・・
華奢すぎる両方の肩がおおきく、いそがしく、いつまでたっても、
上下動を繰り返していました。
「また、うまいこと、男衆(おとこし)の
胸にとびこんだものじゃ。
今の学校では、そないな、必殺技まで教えるのかいな。
ほお~お、たまげたのぉ~」
「すんまへん」と、目をそらさずに
「おちょぼ」が頬を真っ赤に染めています。
肩で息を整えていた「おちょぼ」がさらに数呼吸をくりかえした後、
やがてアっと大きな声をだしてから、自分の居る場所に気がつきます。
顔を真っ赤にした『おちょぼ』が、、あわてて私から
遠くへ飛び下がりました。
胸の前で大事に抱え込んでいたお弁当の包みを、「おちょぼ」が
近寄ってきた源平さんへ、苦笑しながら手渡しています。
「これからお稽古どす。
たち寄ったら、お千代さんから、河原に二人でいるからと、
お弁当などをたのまれました。
・・・・お父はん。
なんぞどこかで、悪さなんぞでも、仕出かしましたか?
お千代さんが、とても暗い顔をしておりました 」
と今度は、心配そうな顔をして、
笑顔で弁当を受け取っている源平さんをまっすぐに覗きこんでいます。
「ああ、これこれ。
子供が大人のことに口出しするな。
大人には、大人にしか解らぬ、大人の事情というものもある。
遠回りなのに、お弁当をわざわざありがとう。
春ちゃんも余計な心配はせずに
早く、都おどりの舞台にたてるような芸妓になっておくれ。
その様子では怪我はなさそうだ、よかったのう。
うん、・・・・ちょっと待て。
春ちゃんは、
もうしかしたら、わしらに届けるお弁当よりも、
最初から用事が有ったのは、こちらのお方の胸の方かのう?」
「いけず!」
「おちょぼ」が、源平さんの背中を強烈に叩きました。
たった今の出来事をまた思い出して、顔を真っ赤にした『おちょぼ』が、
お稽古用の風呂敷包みを、両手でぎゅっと胸に抱えこみこみます。
そのままくるりと、勢いよく反転をした瞬間に、
下駄を鳴らして駆けだしていきました。
作品名:アイラブ桐生 第4部 47~48 作家名:落合順平