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約束~リラの花の咲く頃に~・邂逅編Ⅰ

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 以来、簪は莉彩の宝物となった。この簪がライラックを象っていると露天商が言ったわけではないけれど、父はこの花の形を見た時、確信したそうだ。莉彩の父は仕事柄、若い頃から日本各地を転勤で回ってきた。莉彩が生まれた頃は丁度、北海道支社にいた。
―お前が生まれた朝は、空が眩しいくらいに澄んで蒼く輝いていて、リラの花が満開だった。ママがいる産院の部屋から、庭のリラの花がよく見えたものさ。
 莉彩という名は、ライラックの別名であるリラから付けたのだと、父はよく幼い莉彩を膝に載せて懐かしげに話してくれた。
 自分の名前にゆかりのあるライラックの花、その花を象った簪が莉彩の手許に来たのも何かの縁なのかもしれない。
―じゃあ、パパ、この簪は相当な年代物なのね。
 莉彩はリラの花を象った簪を眺めながら、父に言ったものだ。その後も、莉彩は簪を小物入れに大切にしまい込み、一人になったときには、そっと取り出して眺めた。
 夜、父や母が寝静まった静かな家の内で、莉彩は自分の部屋のベッドに寝っ転がってリラの花の簪をしげしげと見る。枕許のナイトスタンドの淡い照明に照らされ、キラキラと煌めくアメジストの可憐な花に魅了されたように見入った。
 不思議な簪、眺めていると、心がきりきりと切なく痛み、訳もなく泣き出したくなってしまうような。
 そんな時、莉彩は自分のあまりの感傷さに笑ってしまった。多分、陰謀の犠牲となったお妃云々という秘話が、莉彩をそんな妙にセンチメンタルな気分にさせるのだろう。莉彩はそう思った。
 それでも、この簪が本当に何百年も前、それも遠い異国の悲運の女性の艶(つや)やかな黒髪を飾ったのだとしたら、それは何とロマンティックなことだろう。父は縁起が悪い簪だといって莉彩が持っているのに良い顔をしないが、莉彩はあまり頓着しなかった。莉彩が大いに関心があったのは、お妃の辿った薄幸な宿命よりも、歴史の狭間に沈んだ彼女の数奇な人生そのものだった。
 そこに、いかなるドラマがあり、どのような恋物語が存在したのか。王の寵姫だった女人であれば、王と身を灼くような烈しい恋に落ちたのか、それとも、想い合った恋人との仲を引き裂かれ、泣く泣く王の傍へ上がったのか―。
 この小さな、たった一本の簪に莉彩などの与り知らぬ壮大な歴史とドラマが隠されている。想像しただけで、胸躍るような気持ちだ。
 きらめく簪をためす、すがめつしながら、莉彩は夜毎、果てのない空想に耽った。この簪がはるばる海を渡ってきたのだと思うと、何かとても厳粛というか荘厳な気持ちになった。
 そのようないわくのある品は持ち主を選ぶと聞いたことがある。品物の方から望ましい所有者を探して、その人のところにゆくのだと。もちろん、単なる迷信には違いないだろうし、それを真実だと信じ込むほど莉彩も子どもではない。でも、この簪を眺めていると、やはり何かしらの理由があって、この簪が父の手に渡り、更に海を渡って莉彩の許に来たのだという気になってくるのも事実だった。
 父の前にふいに現れ、翌日にはかき消すようにいなくなってしまったという露天商のことも気になる。
 莉彩は物想いに耽りながら、ふと思いついて肩にかけたバッグからコンパクトを取り出す。薔薇の花の形をした蓋を開き、鏡を覗き込んで、額にわずかにかかった前髪を直し、再び蓋を閉めバッグに戻した。
 安藤莉彩は十六歳、Y高校に通う高校一年だ。中学二年から付き合っているボーイフレンドの和泉慎吾がいるが、恋人というよりは親友とか戦友とかいった形容がぴったりだ。
 むろん、慎吾からの告白を受けて付き合い出した手前、慎吾が自分に好意を抱いているのも知っている。でも、付き合って三年になるというのに、いまだにキス一つしたことがないし、せいぜいが遊園地にデートに行って手を繋いだ程度のものである。
 二人だけでいても、話題は学校生活が中心で互いの親友のことや、慎吾が打ち込んでいる野球部のことなど他愛ないといえば他愛ない話ばかりで、慎吾の口から〝好きだ〟と言われたのは、二年前に付き合って欲しいと頼まれたそのときだけなのだから。
 幾ら頼まれたとしても、もし慎吾が嫌いなら、莉彩もOKはしなかったろう。だから多分、莉彩も慎吾を嫌いではないとは思うのだけれど、今一つピンとこない。
 一体、自分は慎吾をどう思っているのか。莉彩は元々、流されやすいというか、他人から頼まれたら厭とは言えない性分である。そのため、掃除当番とか日直とか、頼まれると、すぐに引き受けてしまう。
―ね、安藤さん。私、今日は塾でどうしても早く帰らないと駄目なの。悪いけど、最後の戸締まりの点検、代わりに頼めないかな。
 眼の前で両手を合わせ懇願されると、〝うん、いいよ。私は特に何もないから〟と笑顔で応えてしまう自分がちょっと情けない。
 慎吾に言わせれば、〝それが莉彩の良いところなんだよ、気にするな〟と慰めてはくれるのだが、この主体性のない性格を少しは直したいと思っている莉彩だった。
 その頼まれると断り切れないというノリでつきあい始めてしまったといえば、慎吾にはあまりに失礼だし申し訳ない。しかし、完全にそうではないと言い切れないところが、辛いところだ。
 つまり、だ。莉彩は慎吾を顔を見るのも厭というわけではないから、頼まれて付き合い始めたが、結局のところ、彼氏だとか恋人だとかいう自分にとっての特別な存在だと思っているわけではない。―と、結論はこうなる。
 その気持ちはこの三年の間も変わらなかった。莉彩としては、むしろ変わってくれた方が良かったのだ。だって、今のままの中途半端な気持ちでは、あまりに慎吾に申し訳ないではないか。付き合い始めた当初は、莉彩だって、いつかは慎吾を好きになれると思っていた。
 いや、今だって慎吾のことを好きだ。でも、その〝好き〟は女友達の泰恵や遥香に対するのと全く同質のもので、慎吾に向ける想いが恋情だとは到底思えなかった。恐らく、それは慎吾の望む〝好き〟ではないだろう。
 いっそのこと、慎吾に他の好きな女の子が現れれば、莉彩は気が楽なのに。なんて考えてしまう自分は、とんでもない卑怯者に違いない。自分が悪者になりたくなくて、慎吾に別の子に眼を向けて欲しいと願っている。
 慎吾に真実の気持ちを伝えなければと思いながら、莉彩はついつい言えずじまいでいた。莉彩と同じ地元のY中学を卒業した後、慎吾は仲間と別れ、たった一人、私立のS高校に進学した。S高校は付属の大学もある名門男子校で、高校の野球部は毎年のように甲子園に出場し、全国大会でも何度か優勝を飾っている強豪だ。現在、慎吾は毎日往復四時間かけてS高まで通っているが、大学入学後は近くに下宿すると聞いている。
 毎日遅くなるまで部活に明け暮れ、電車に揺られてY町の自宅に辿り着く頃には午後八時を回っていることが多いという。それでも愚痴や弱音一つ零さず、学校の成績も常にトップクラスだという慎吾。