「風の強い日」
風の強い日、まあ子は必ず外に出たいと駄々をこねる。
「風の強い日は色んなものが飛んで来るんだよ。危ないからお部屋にいよう」
そう彼女を諭そうとする僕の努力などなんのその。彼女は一度言い出すと聞かない。
「外に出る! 外に出る!」
その一点張りだ。
僕も段々と彼女を諭すのが面倒くさくなって、結果、いつものように僕らは手をつないで外に出る羽目になる。外では風がびゅーびゅーっとなっていて僕達の事など簡単に吹き飛ばしてくれると戦いを挑んでくる。
「こんな日に外に出て何が楽しいの?」
僕はまあ子にそう聞いてみるが彼女は僕の事などお構いなしに髪の毛をばっさばさと揺らしていく強い風に夢中だ。庭から裏の原っぱに出たら、僕の手を離して走り出そうとするから僕は慌てて彼女の手を握る手に力を込める。
『きっと、強い風が楽しいのよ。びゅー、びゅーって耳元でなる風の音が好きなんじゃない? 』
前に付き合っていた恋人は強い風の中をはしゃぐまあ子を見て、そんな風に言っていた。長い髪のキレイな優しい女性だった。彼女が作ってくれる卵焼きをまあ子は愛していた。僕も優しくてキレイな彼女のことが大好きだった。でも、彼女はもういない。僕の隣にはいつも通り、まあ子が一人いるだけだ。
「離して、離してよ!」
僕の手を離れて一人で動きたいのだとまあ子は僕の指を掴んで自分の手からはがそうとしていた。ただ、そう簡単にはいかない。僕は大人で彼女は子ども。力の差は歴然としている。
「駄目だよ。お散歩だろ。手を繋いでいくんだよ」
「いやよ! 離してよ!」
泣き叫ぶみたいにまあ子が言うから、僕はなんだか彼女が可哀想になる。僕も昔はまあ子みたいに自分ではどうにも出来ない事によく「嫌だ嫌だ」と泣き叫んでいた。泣いたってどうにもならないのに、ただ悔しくて悔しくて涙だけは沢山出た。
「じゃあ、一緒に走ろう」
まあ子の手を掴んで風の中を走り出す。縦横無尽に吹き付けてくる風は時折、本当に僕らの身体を持ち上げてどこかへ運んでいきそうな勢いだ。
「あはは、あはははは」
さっきまでの泣き顔はどこへやら、まあ子の笑い声が風に乗って辺りに響き渡る。
僕達は駆ける。それそれの手を繋いで、合わせて四本の足で、出来るだけ速く、出来るだけ高く、広々とした野原を駆ける。
「楽しいね。楽しいね」
まあ子が笑いながら、走る。僕は段々と息が上がってきて、耳元で鳴っているのが風の音なのか自分の呼吸音なのか、段々と分からなくなってくる。
強い風の中、僕らは不明瞭に溶け込んでいく。深く、深く。風の中に、まあ子は僕の中に、僕はまあ子の中に。互いに境界を失ってごちゃごちゃに溶け込んでいく。
「もう駄目だっ!」
先に僕が限界の声を上げて、地面に倒れこんだ。まあ子も一緒に僕の胸に倒れこんでいて大声で笑い声を上げた。
「運動不足よ」
まあ子が大人みたいな口調で言う。
「大人だから仕方ないんだよ」
僕も負けじと強気で返す。まあ子が僕のお腹を枕にして大の字に地面に寝そべった。風は僕らの顔を上で相変わらずびゅーびゅーっと鳴っている。
大きく膨らんだ蕾をつけた桜の枝が風に大きくしなっている。今年も僕はまあ子と二人で桜を見ることになる。誰もいない二人っきりで。たった二人の家族として。
「早く桜が咲くといいね」
僕の気持ちを読んだようにまあ子が言う。まあ子は桜が好きだ。僕の奥さんだった、まあ子のお母さんだった女性も桜の季節が好きだった。
「お花、大丈夫かな? 風で飛んでいかない?」
「大丈夫だよ。まだ咲いていないから。咲いていないお花は枝にしっかりくっついているんだよ。だから、大丈夫」
「そう。良かった」
また女性みたいな口調でまあ子が言う。最近、どこで覚えてくるのか、突然、大人の女性みたいな事を言ったりする。その度に僕はどぎまぎしてしまう。
いつかまあ子も、他の多くの女性のように、美しく柔らかくて魅力的だが何を考えているか分からない不可思議な生き物になってしまうのだろうか。
僕のまあ子もいつの日か、そんな風に僕から離れていくだろうか。
「お花、風が終わるの分かるかな? 早く咲いちゃったら大変よ」
まあ子が僕の体の上でごろんと一回転して僕を見た。
「大丈夫。分かるよ、ちゃんと。さぁ、帰ろう」
「えー、もう?」
「何か飲もうよ。喉が渇いたよ」
「何かって?」
「何かだよ」
まあ子を抱えたまま立ち上がって、家へと向かう。まあ子が僕の腕の中、足をばたばたさせるから、僕はよろよろと風に押されてしまう。
「桜、楽しみね」
まあ子が言う。
「楽しみだね」
「お弁当作ってね」
「お花見するんだもんね」
「そうよ」
「色々と準備しなきゃだね」
「そうよ」
「まあ子のお父さんは大変だよ」
ため息みたいにいうとまあ子が大きく首を振る。
「違う、違う。まあ子だって大変なんだから」
「はいはい」
風は僕らの後ろで未だびゅーびゅーとなり続けてた。
了