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涸れたはずの涙

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『涸れたはずの涙』

雪子は窓を開けた。雪が降っている。春の雪だ。ぱらぱらと降って地面に落ちるとすぐに溶けて消えた。雪を眺めているうちに、父タケルのことを思い出した。
父は酔うとよく彼女になぜ『雪子』と付けたか話した。生まれ日、朝から真っ白な雪がしんしんと降っていたという。父親が病院の窓を開けると、平野を囲む山の輪郭はぼんやりとかすみ、まるで一幅の水墨画のように映った。その美しさに感動し、雪のように美しく育って欲しいという思いを込めて命名した。その父も今はいない。彼女が十二才の時に死んだ。
 
母は好きではなかった。細やかな気配りがあった父とは違って、何事にも大雑把であった。その母は、父の死後、三年目にして再婚した。再婚相手は、父とは違って明るくて力強い骨格した逞しい男だった。だが、雪子は馴染めなかった。
十七になった時のことだった。子供から大人へ変わろうとする人生の過渡期で、自分でも自分のことがよく分からない年頃である。継父も、母も、故郷も、何もかもが嫌でたまらなかった。そんなある日、ちょっとした出来事が起きた。風呂に入っていると、継父が浴室の戸を開けた。シャワーを浴びていた。振り返ると、継父は、酔っていたのであろう、赤鬼のように顔を赤くしていた。「すまん、雪ちゃんが入っているとは気づかなかった」と言って立っていた。彼女は「早く締めてよ」と怒鳴った。そのときの継父の眼は蛇の眼に似ていた。まるで体の隅々まで舐めまわすようかのように大きく見開いていた。継父が消えると、慌てて風呂から上がった。布団の中に入ってもなかなか寝つかれなかった。眼を閉じ、ぼんやりとまどろむと、ふいに大きく見開いた継父の眼が浮かび上がってくるのだ。その日を境にして継父と視線を合わせることはなるべく避け、話し掛けられても無視するようになった。前からそうであったが、夫に嫌われまいとして母はよそよそしく振舞う娘を一層烈しく叱るようになった。
 田舎を飛び出したきっかけは些細なことだった。継父の買ってきた西瓜をいらないといって庭に投げ捨てたことで、母が頬を叩いたことが原因だった。すぐに荷物をまとめて、そのまま電車に乗って東京に来た。四年が過ぎた。……過ぎ去った時のことを思い胸が熱くなった。けれど、涙は不思議と流れなかった。

 雪子は女が手っ取り早く金を得られる仕事で生計を立てている。それは金がただ単に欲しいためでなく、彼女の心の中に芯になるものが欠落し自暴自棄になっていたからだ。今は生きられるなら、あとはどうでも良かったのである。ただ生きるために体を売っているにすぎない。東京に来てどれほどの男に抱かれたことだろう? たぶん数えきれまい。けれど快楽を感じたことはない。まるで仮面のように表情を表さず、男に抱かれる時を過ごす。雪子の常連は五十に手が届こうとする四十代後半のサラリーマンが多い。彼らは疲れ切っていて、一時のオアシスを求めに来て雪子を抱く。だが、そのオアシスは逃げ水だ。

 雪は朝のほんの一時のことだった。昼近くになると陽が射し、空は一点の曇りもない青色になった。
 彼女はいつもより遅くアパートを出た。
 公園に入ったところで、何かぶつかって尻餅をついた。
「ごめん、ちょっと場所を探していたんだ」と言ったのは、見るからに優しそうな顔した三十五、六の男だった。その男はまるで肉体労働者のように筋肉質の体をしていた。
「いえ、私も急いでいたから」と言いながら、起き上がり、男を見ると、微笑んでいた。
雪子がまた歩みだそうとした。すると、
「君はこの辺に詳しい?」
「少しは……」
「じゃA町に行きたいんだ」
「A町と言っても広いよ」
「そう」と言って、ポケットから皺くちゃになった一片の紙切れを出した。
「そこなら知っている。私も行くの。付いて来たらいいわ」
「そうしょう」
 公園の周りには、ラブホテルが密集している。雪子は男の顔をちらっと見た。男は照れ臭そうな顔していた。
 ホテルを越えると、飲み屋とアパートが混在する不思議なところである。
「この辺りよ」と言って雪子は料亭にも見えるような家に入って消えた。
 男はまたポケットに手を突っ込み、紙切れを出した。
 小さなネオン看板を見つけた。そこは雪子が入った所だった!
 六時から開くものの客はめったに来ない。客は八時まわった頃が一番多い。それまでの間、女たちは待合室でテレビを見ているか、お茶を飲みながら井戸端会議を開いている。
 雪子に向かって「お客さんだよ」と言ったのは、ここのボーイをしている二十代そこそこの三郎だった。三郎は雪子にほれていた。
「誰?」
「たぶん、初めての人だろ? どこか掴みどころがない。どう見ても、普通の人にもヤクザにも見えない」
雪子はまだ着替えていなかった。ここでは、ズボンは駄目でスカートに履かねばならなかった。急いで着替え、男の待つ部屋に向かった。部屋は二階にあった。部屋のなかは殺風景で和室の部屋に洋酒を入れておくキャビネットとセミダブルのベッドがあるだけだった。また、窓はしっかりと閉じられていた。
「いらっしゃいませ」と深々とお辞儀をした。
 ゆっくりと頭を上げた。男は煙草を吸っていて、その煙草を灰皿に置くと、雪子の顔を見た。
「君だったのか? 奇遇だね」
 「ハナと言います」と言うと微笑んだ。
 ハナとは、店で使う源氏名である。
「良く見ると、美人だね」
雪子は少し顔を赤らめた。初めて来た客にそんなことを言われたことはなかったから、少し照れ臭かった。
「ここの店、何をするところだか知っている?」
 男はうなずいた。
「そう」と言って彼女は上着を脱いだ。盛り上がった乳房はあらわになった。乳首はきれいなピンク色をしていた。
「いいよ、今日は君に渡したいものがあって来ただけなんだ」
 雪子は脱ぎかけた服を着なおした。
「横田さんからだ」と言ってカバンから取り出したのは一枚の絵だった。
 横田は洋画家として知られた人物で、その生涯を酒と女で過ごした。さすがに晩年になると、男性機能は衰えたが、それでも、月に二回は雪子のもとに通った。ボケらないためと称して。雪子にとってもいい客の一人だった。ただ語らい裸を見るだけだったから。雪子は心のどこかで父の面影を横田に見ていた。優しい話し方や穏やかな表情に。それがここ三か月くらい姿を見せなくなっていたのである。
「横田さん、どうしたの?」
「死んだ。呆気なく先月。入院して五日目のことだった。その前日、僕が見舞った時は、元気そうな顔をして、この絵を君に渡してほしいと頼まれた」
 手渡された絵は雪子の横顔を描いたものだ。
 男は絵と雪子を見比べた。実にうまく特徴をとらえて描いていると感心した。ショートヘアで、眼は幼子のように大きく見開いていて、少し上向きだ。鼻は白人のように高いく、口は大きくもなく小さくもない。とても美しく描かれている。
 雪子の眼に涙が流れた。どうしょうもなく流れてきた。こんな涙が流れてきたのは、父が死んだ時以来だった。
 




作品名:涸れたはずの涙 作家名:楡井英夫