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佐崎 三郎
佐崎 三郎
novelistID. 27916
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ショーセツの誕生

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山梨の知人が養蚕農家の空き家を管理しているので、年に数回、気分転換に泊りに行くことがある。五十路になってそんなことを楽しむようになったのか。その日も二泊三日で、三月末の風の強い日に遊びに行ったのだ。東京の外れから相模湖を抜け、甲府南から左へと下りていく。天気が良ければ南アルプスを右手に見ながら、爽やかな気分も味わえるけれど、生憎の雨はより激しく降り、ワイパーは休むことなく動いていた。山を登り始めると気温も下がり、車内のガラスも白く雲がかってくる。ああ、また来たなと思う。舗装されたくねりゆく道をサードギアで走る。エンジンに負担をかけないように登る。後続車もいないし、下りてくる車もたった一台だった。窓を開けて深呼吸をしたいけれど雨でできない。しかし鳥の声が森の中に響き渡っているのが分かった。

急な砂利道を登るとその家はある。雨の中、買い込んだ食料と持ち込む荷物をまずいそいそと運び、車を眺望の良いいつもの高台へ置き、足元の泥濘に気をつけながら坂を下りていった。寒さで手が痛い。冷蔵庫に入れるべきものは入れ、薬缶でたっぷりと湯を沸かし、インスタント珈琲の蓋を開けて、カップに焦げ茶色の粒を目分量で落とす。湯が沸き、白く湯気がのぼるのを、目を細めつつポットに流し込み、(この時におきる音が好きである)、蓋を閉め、すかさずカップにたっぷりと注ぎ入れ、掘り炬燵に座り、(掘りの中には豆炭が焼かれて入れてあった)、両手を温めながらゆっくりと口に運び火傷をしないようにすぅーと少量の液体を中に吸い込んだ。ほっとした。

しばらくそのままぼんやりしていた。雨除けで、縁側を覆っていた抜け歯のような雨戸の隙間の色が明るくなってきた。靄でけむっていた雲が流れて遠くの山が現れてきた。自称晴れ男だと思っているため、この現象に偶然を感じていない。炬燵を出て、雨戸を全部戸袋に入れ、光を部屋の中に誘い込んだ。庭の端にある梅は白点を散らすように満開で、前方見下ろす田畑にはなにもなかった。鶯がどもりながら鳴いている。春はやはり来ていた。

炬燵に戻り、自宅から運んだ数冊の本を取り出して並べてみる。我ながらとりとめのない、節操のない選択のラインナップに驚くが、こういう場でしか読めないものもあるのだと自分を納得させる。古本で購入した永井荷風全集の第二巻を手にとって、その重みを感じながら函から抜き取る。この瞬間に心が躍る。なにかの随筆で『地獄の花』という短編小説を紹介していた。それを是非読んでみたくなった。初めて読むときのわくわく感が久しぶりにある。こういうときの表情を自分でも見てみたい。鏡でもいいから是非見てみたいものだと思う。

「輝く(かがや)五月(ぐわつ)、その第二日曜日の午後も聊か(いささか)残り少なになった。園子は幼き(いとけな)秀男の手を引いて、丁度向島の白(しら)髯(ひげ)の堤を、かなり疲れた歩調(あしどり)で、ゆるゆると歩いて来る。」

書き出しの一節である。ものの良し悪しを言う能力もないけれども、この文章にわたしはいろいろなものを感じる。特別なことはなにも書いていない。日常の一コマである。少し気になるのは「聊か残り少な」になった午後のことと、「かなり疲れた」という形容のところ。なにも起きないかも知れないけれど、なにかが起こる気配もある。荷風の小説をきちんと読んだこともなく、題名の『地獄の花』への前知識も左程ない。ただ初めてこの文章に出会って、なにかが‘違う’と思うのだ。

お釜にお米を水に浸しておくように、わたしは文字をこのまま胸に浸して本を閉じた。身体が温まってきたので、そのまま後ろに倒れて深呼吸をした。睡魔が来ているのが分かった。最近はよく眠れず、不規則な生活だったのでこのタイミングを逃すのが惜しいと思い目を閉じた。足元が不安定で寝づらい態勢ではあるが、それでもいつの間にか眠っていた。いったいいま何時なのかと、とふと思った。

耳が軽い痒みで目が覚めた。いや覚めてはいなかった。覚醒の一歩手前か、全くの夢かも知れないなと思いながら、曖昧な感覚で右の耳になにか軽い異変を感じていたのだった。虫かなにかが入ったのかと思った。

「おい」と極々小さな声らしきものが聞こえた。「おい」とまた響く。これは声なのか鼓膜を虫が這っているのかと思いながら、「なんだ」と口は動かさず頭の中で答えた。こういう状態での会話だった。
「生まれたよ」
「生まれた?なにが」
「ボクが」
「ボクがと言われてもわからないよ」
「誕生日なのだ。祝って」
「誕生日。きみの?ってこと」
「生まれたのだから。できたのだから」
なにを言っているのかわからないわたしは、この痒みにも痛みにも感じる耳の穴に、綿棒か耳かきを突っ込んで、掻き出したい欲望にかられたけれども、身体は寝ているのか手も足も出ない。指ですら動かない。動いたにしても小指ですら穴には入らないけれども。気休めにはなる。
「ところでなにしているのだ。ヒトの耳の中で」
「歩いていたり休んでいたり」
「きみは虫か?」
「ムシ?」
声は驚きの色で返ってきた。
「ムシって、なに!?」
頭の中で小さな蜘蛛や黒蟻やダニやミジンコや得体の知れない極小生物が透明に近い形で蠢いている。暗いトンネルの中で、‘なにか’がわたしに話しているのは確かなのだ。耳の違和感に疲れた。このままでいることに我慢が出来なくなってきた。
「寝るよ」と言った。
「いいよ。でもわかったね、生まれたことは」
「わからないけど、わかったことにするよ」
「はぁはぁはぁはぁはぁ」
それは笑ったのか、なにかの擦れる音か、空気の流れた音か分からないが、音とともにわたしは記憶を失くし、いつの間にか普通の睡眠状態になったのか、時間の経過も計れず、目の前が明るくなり目が覚めた。不自然な姿勢だったので身体の筋が痛い。足元は温い闇の中で靴下越しに冷たくなり、起き上がり、豆炭を覆う金網の上に足の裏をあてて、前後左右に動かした。靴下に感じる温度は意外に熱い。冷え切った珈琲を一口飲みこんで、時を知った。たった1時間ちょっとか。耳は?と右耳を意識してみたがなにも違和感はなかった。

もう一度荷風全集を手にとって、冒頭の文字を目で追った。その時、耳にぶるぶるとなにかが走った感じがした。まさか、文字が、入った?どの文字かは分からないが、頁から零れ落ち、または跳び撥ね、わたしが閉じる一瞬の間に出てしまい、辺りをふらついた後にわたしの耳を見つけて入って来たのかも知れない。「っ」か。この文字が跳ねて来たのか、蚤のように。面白がって入っただけか。でもなにが生まれたんだろう。なにを言いたかったのだろう。いやなにも言うことがないから出鱈目を言ったのかも。面白いことも思い付かずに、ただ意味深なことを口にしただけだと。「っ」のやりそうなことだ。そうやりかねない。そういうやつなんだ「っ」っていうのは。
作品名:ショーセツの誕生 作家名:佐崎 三郎