異聞・大化の改新
蘇我入鹿、それは日本の歴史上もっとも誤解されている人物
私たちが習った歴史では、臣下でありながら天皇の位をねらった逆臣、
それゆえに大化の改新の幕開け、乙巳の変で中大兄皇子にうたれたと
しかし、それは事実であっても真実ではなかったのです
大化の改新、それは豪族支配を打破し天皇中心とした中央集権化、公地公民制の導入や天皇の現人神化といった政治革命といわれています
そしてその豪族連合の筆頭であった蘇我入鹿がその革命に邪魔だったので殺した、と
しかし、蘇我氏は大和朝廷直轄の屯倉を増設したり、国造の官僚化をはかるなど、むしろ中央集権国家路線を歩んでおり、律令制度確立にはむしろ賛成派だったのです
しかも中国の歴史書である随書によると、西暦600年頃の倭王の名前は姓は阿毎、字は多利思比狐、・・・後宮に女6,700人あり、太子を名ずけてワカミタフリ(利歌弥多弗利)となす、といった記載があります
日本書紀によると、そのころの大王は女帝の推古であり太子はあの聖徳太子と書かれてあり、この隋書と性別がちがいます
まさか隋側が男女誤認をするとは考えられません
推古女帝自身が蘇我馬子の歌に答えた歌の中で馬子のことを大君という言葉をつかっています。これは推古は大王ではなく馬子が大王であることを暴露しているのでは
これらのことを文字どうり素直に解釈すれば、隋のいう倭王とは、蘇我馬子であり
太子とは入鹿の父蝦夷であった、となるのではないでしょうか
そういう目でみれば、あの飛鳥の遺跡石舞台が蘇我馬子の墓、石室であるというのも納得できるのです。あの石室はまさに大王クラスの規模なのです
では、太子を馬子の子、つまり入鹿の父蝦夷だとすると、あの聖徳太子はどうなるのでしょうか、という疑問がわいてきます
歴史的事実として後の世に聖徳太子の子孫は一切存続していない、ということ
旧一万円札に書かれている太子父子の像が中国のなかのある小国の王族のものであるという事実から、一部でささやかれている聖徳太子捏造説も事実なのかもしれません
では、入鹿がそのような人物の孫だとすると、大化の改新とはなんだったのか
なぜ蘇我入鹿は暗殺されなければならなかったのでしょうか
それは、国内事情ではなく、その頃の日本をとりまく海外事情、とくに朝鮮半島の事情によるところが大だったのです
大化の改新前夜の朝鮮半島は新羅、百済、高句麗という3国にわかれ争っていたのです
とくに新羅は入鹿たちが推進する日本軍による百済応援策により国が滅びかけていたのです
そこに日本がさらに積極的に百済に応援派兵する気配があり、そうなると新羅という国は完全に滅んでしまいます
そこで大海人皇子に父の国新羅から密命がくだったのです
百済に援軍をだささないようにするために、軍事的実力者蘇我入鹿を殺すようにと
その為には時の天皇家の中枢を握っていた中大兄皇子と入鹿の仲をさかなければいけません
その仲を裂く陰謀実現にとって運のよいことに中大兄には2つの弱点があったのです
そのひとつは自分の母親と入鹿との男女の仲
自分の母親が女として、たとえ未亡人であっても、父以外の男性と恋をする
それは多感な十代の若者にとっての感情は複雑だったことでしょう
本来は母に向けるべき怒りの炎を入鹿に向けられたのです
もうひとつは自分と同母同父兄妹である間人皇女との恋愛問題
そのころ異父兄弟姉妹の恋愛は許されていたのですが、同母同父はタブーだったのです
この時代は通い婚の時代で夫が妻の実家に通うという婚姻形態
生まれたこどもは成人するまでこの母親の実家で母親の家族とともに育つのです
つまり女系家族であり、同母は同族と同義語なのです
つまり母親が異なれば他人ということなので、結婚は許されるのです
とまれ中大兄と間人兄妹のことは、まわりから大反対です
とくに実質の権力者である蘇我家からは厳しく戒められたことでしょう
先日発掘された甘樫岡、そこが蘇我家の屋敷跡
眼下に飛鳥の里が一望でき軍事的にも重要な場所でもありました
指呼の間にある蘇我の館、そこから一気に攻め下られれば天皇家といえども防ぎきれないほどの軍事拠点でもあり、外国からも恐れられる実力者でもあったのです
入鹿には軍事的にも頭を押さえつけられ、愛しい間人皇女との恋も邪魔され、しかも母親さえ奪われる
これらのことは一国の指導者、日嗣の皇子としては耐えなければならないということは頭では理解していたのでしょうが、感情では反発していったことは想像できます
心の中では、今に見ておれ、と、入鹿に怒りの矛先がむけられていたことは想像に難くはありません
そのこころの隙につけこんだのが大海人なのです
私たちの習った歴史では中大兄と大海人は父母を同じくする実の兄弟で中大兄が兄となっています
しかし、実際は大海人は母の連れ子で、しかも年上だったのです
その大海人皇子、後の天武天皇の実父は新羅の王族だったのです
だがこれも眉唾物で、まったくの赤の他人だった可能性すらあるのです
この兄弟は自分たちの娘を数多く互いの妃に差し出すのです
世界中どこにも実の兄弟でのこのような婚姻はなく、まさに異常なことなのです
これは他人が人質交換としてのみ存在する婚姻形態、そう政略結婚なのです
そしてその陰謀の助っ人が中臣鎌足なのです
中臣鎌足、のちの藤原鎌足は中大兄の腹心ということに歴史ではなっています
しかし、この鎌足も新羅系と思われ、物部氏同様廃仏派、彼は神を祭る役目の家系、すなわちアンチ蘇我派なのです
余談ですが、池上・曽根遺跡、紀元前後、1000人という集落は今で言う大都会、しかし200年ごろから衰退していきます。まるでこの物部氏の河内への進出にあわせるように
この物部氏は、曽根神社に祀られているあのスサノウの子孫で、後の仁徳天皇の祖先でもあり、河内、堺が本拠地だったのです
陸路だけでなく、石津川を使えば、松ノ浜など海側からも池上曽根に進出できます
戦乱の跡がないのでこの物部氏に婚姻など友好的に同化吸収されていったのでしょう、
さて、その物部氏と蘇我氏との仏教論争の時、この鎌足、その時は中臣鎌子といったのですが、物部氏と一緒になって蘇我氏に大反対した、と日本書紀に書かれています
崇仏派である蘇我家とは敵の家系なのです
出世欲のかたまり、南淵請安門下の優等生で頭脳優秀、しかし蘇我家のために世にでられない悲運の主
これが鎌足の実像で、出世できぬ世の中を恨んでいたことでしょう
そこににっくき蘇我家を滅ぼす千載一遇のチャンスがやってきたのです
そのチャンスをもたらせてくれたのが大海人皇子だったのです
そして後年、その恩人である大海人皇子の危機をすくったのも鎌足だったのです
後に天智天皇として即位した中大兄皇子が、自分の長男大友皇子を次の天皇にするのに、邪魔な大海人の殺害の機会をうかがっているころ、その絶好のチャンスがきました
額田王という愛妾を中大兄にとられむしゃくしゃしていた大海人が、ある宴の最中に酒に酔った振りをして中大兄に槍を投げつけるという不届きがありました
ここがチャンスと大海人をお手打ちにしようとした中大兄を止めたのが鎌足なのです。
私たちが習った歴史では、臣下でありながら天皇の位をねらった逆臣、
それゆえに大化の改新の幕開け、乙巳の変で中大兄皇子にうたれたと
しかし、それは事実であっても真実ではなかったのです
大化の改新、それは豪族支配を打破し天皇中心とした中央集権化、公地公民制の導入や天皇の現人神化といった政治革命といわれています
そしてその豪族連合の筆頭であった蘇我入鹿がその革命に邪魔だったので殺した、と
しかし、蘇我氏は大和朝廷直轄の屯倉を増設したり、国造の官僚化をはかるなど、むしろ中央集権国家路線を歩んでおり、律令制度確立にはむしろ賛成派だったのです
しかも中国の歴史書である随書によると、西暦600年頃の倭王の名前は姓は阿毎、字は多利思比狐、・・・後宮に女6,700人あり、太子を名ずけてワカミタフリ(利歌弥多弗利)となす、といった記載があります
日本書紀によると、そのころの大王は女帝の推古であり太子はあの聖徳太子と書かれてあり、この隋書と性別がちがいます
まさか隋側が男女誤認をするとは考えられません
推古女帝自身が蘇我馬子の歌に答えた歌の中で馬子のことを大君という言葉をつかっています。これは推古は大王ではなく馬子が大王であることを暴露しているのでは
これらのことを文字どうり素直に解釈すれば、隋のいう倭王とは、蘇我馬子であり
太子とは入鹿の父蝦夷であった、となるのではないでしょうか
そういう目でみれば、あの飛鳥の遺跡石舞台が蘇我馬子の墓、石室であるというのも納得できるのです。あの石室はまさに大王クラスの規模なのです
では、太子を馬子の子、つまり入鹿の父蝦夷だとすると、あの聖徳太子はどうなるのでしょうか、という疑問がわいてきます
歴史的事実として後の世に聖徳太子の子孫は一切存続していない、ということ
旧一万円札に書かれている太子父子の像が中国のなかのある小国の王族のものであるという事実から、一部でささやかれている聖徳太子捏造説も事実なのかもしれません
では、入鹿がそのような人物の孫だとすると、大化の改新とはなんだったのか
なぜ蘇我入鹿は暗殺されなければならなかったのでしょうか
それは、国内事情ではなく、その頃の日本をとりまく海外事情、とくに朝鮮半島の事情によるところが大だったのです
大化の改新前夜の朝鮮半島は新羅、百済、高句麗という3国にわかれ争っていたのです
とくに新羅は入鹿たちが推進する日本軍による百済応援策により国が滅びかけていたのです
そこに日本がさらに積極的に百済に応援派兵する気配があり、そうなると新羅という国は完全に滅んでしまいます
そこで大海人皇子に父の国新羅から密命がくだったのです
百済に援軍をだささないようにするために、軍事的実力者蘇我入鹿を殺すようにと
その為には時の天皇家の中枢を握っていた中大兄皇子と入鹿の仲をさかなければいけません
その仲を裂く陰謀実現にとって運のよいことに中大兄には2つの弱点があったのです
そのひとつは自分の母親と入鹿との男女の仲
自分の母親が女として、たとえ未亡人であっても、父以外の男性と恋をする
それは多感な十代の若者にとっての感情は複雑だったことでしょう
本来は母に向けるべき怒りの炎を入鹿に向けられたのです
もうひとつは自分と同母同父兄妹である間人皇女との恋愛問題
そのころ異父兄弟姉妹の恋愛は許されていたのですが、同母同父はタブーだったのです
この時代は通い婚の時代で夫が妻の実家に通うという婚姻形態
生まれたこどもは成人するまでこの母親の実家で母親の家族とともに育つのです
つまり女系家族であり、同母は同族と同義語なのです
つまり母親が異なれば他人ということなので、結婚は許されるのです
とまれ中大兄と間人兄妹のことは、まわりから大反対です
とくに実質の権力者である蘇我家からは厳しく戒められたことでしょう
先日発掘された甘樫岡、そこが蘇我家の屋敷跡
眼下に飛鳥の里が一望でき軍事的にも重要な場所でもありました
指呼の間にある蘇我の館、そこから一気に攻め下られれば天皇家といえども防ぎきれないほどの軍事拠点でもあり、外国からも恐れられる実力者でもあったのです
入鹿には軍事的にも頭を押さえつけられ、愛しい間人皇女との恋も邪魔され、しかも母親さえ奪われる
これらのことは一国の指導者、日嗣の皇子としては耐えなければならないということは頭では理解していたのでしょうが、感情では反発していったことは想像できます
心の中では、今に見ておれ、と、入鹿に怒りの矛先がむけられていたことは想像に難くはありません
そのこころの隙につけこんだのが大海人なのです
私たちの習った歴史では中大兄と大海人は父母を同じくする実の兄弟で中大兄が兄となっています
しかし、実際は大海人は母の連れ子で、しかも年上だったのです
その大海人皇子、後の天武天皇の実父は新羅の王族だったのです
だがこれも眉唾物で、まったくの赤の他人だった可能性すらあるのです
この兄弟は自分たちの娘を数多く互いの妃に差し出すのです
世界中どこにも実の兄弟でのこのような婚姻はなく、まさに異常なことなのです
これは他人が人質交換としてのみ存在する婚姻形態、そう政略結婚なのです
そしてその陰謀の助っ人が中臣鎌足なのです
中臣鎌足、のちの藤原鎌足は中大兄の腹心ということに歴史ではなっています
しかし、この鎌足も新羅系と思われ、物部氏同様廃仏派、彼は神を祭る役目の家系、すなわちアンチ蘇我派なのです
余談ですが、池上・曽根遺跡、紀元前後、1000人という集落は今で言う大都会、しかし200年ごろから衰退していきます。まるでこの物部氏の河内への進出にあわせるように
この物部氏は、曽根神社に祀られているあのスサノウの子孫で、後の仁徳天皇の祖先でもあり、河内、堺が本拠地だったのです
陸路だけでなく、石津川を使えば、松ノ浜など海側からも池上曽根に進出できます
戦乱の跡がないのでこの物部氏に婚姻など友好的に同化吸収されていったのでしょう、
さて、その物部氏と蘇我氏との仏教論争の時、この鎌足、その時は中臣鎌子といったのですが、物部氏と一緒になって蘇我氏に大反対した、と日本書紀に書かれています
崇仏派である蘇我家とは敵の家系なのです
出世欲のかたまり、南淵請安門下の優等生で頭脳優秀、しかし蘇我家のために世にでられない悲運の主
これが鎌足の実像で、出世できぬ世の中を恨んでいたことでしょう
そこににっくき蘇我家を滅ぼす千載一遇のチャンスがやってきたのです
そのチャンスをもたらせてくれたのが大海人皇子だったのです
そして後年、その恩人である大海人皇子の危機をすくったのも鎌足だったのです
後に天智天皇として即位した中大兄皇子が、自分の長男大友皇子を次の天皇にするのに、邪魔な大海人の殺害の機会をうかがっているころ、その絶好のチャンスがきました
額田王という愛妾を中大兄にとられむしゃくしゃしていた大海人が、ある宴の最中に酒に酔った振りをして中大兄に槍を投げつけるという不届きがありました
ここがチャンスと大海人をお手打ちにしようとした中大兄を止めたのが鎌足なのです。