その穴の奥、鏡の向こうに・穴編
「いいだろ、呼び名には困らねぇんだからッ!お前だって名乗ってないじゃんかぁ!」
俺は目をちかちかさせて、思わず耳をふさいだ。どうやら名前にコンプレックスでもあるようだ。もうこの話題に触れない方がいいかもしれない。
解ったと言って彼をなんとか宥める。とても年上だと思えない。こんな大の男が騒ぐなんて。逆にどんな名前なのか、そんなに嫌がられたら気になるけどな。
落ち着いた彼から、一体俺は彼を逃がすために何をすればいいのかを尋ねると、鷲尾は肩で息をしながら説明した。
要約すると、この鎖を杭につなぎとめている巨大な南京錠を解錠してくれればいいとのことだった。鷲尾が持ち上げた鎖を追っていくと、その先には確かに両手で持たないと重たくて持ち上がらなさそうなビックサイズの蝶番(ちょうつがい)の姿が見える。それに見合ったサイズの鍵穴から、鍵の大きさを知った。持って走るのはなかなか大変そうだ。
「で、その鍵ってのは何処にあるんだ?」
「公爵夫人の家だ」
「公爵夫人?」
なんだか偉そうなおばさんを想像する。借りるためには説得をしなければならないのだろうし、その際に鷲尾の名前を出すこともダメだろう。鷲尾を逃がすことがばれたら、それこそ俺もつかまっちゃうかもしれない。自慢じゃないけど、俺には説得力ってもんが備わっていない。小学校のころに仲の良かった「そう君」にも、よく丸めこまれていた記憶がある。喧嘩して、彼に口で勝ったためしがなかった。
不安を隠すこともできず、俺がそれを伝えると、彼に呆れられてしまった。
「お前、公爵夫人を説得するなんて、誰だって無理だよ」
「じゃあ、どうしろって言うんだよ」
「盗み出す」
犯罪だ。それはまごうことなき犯罪だ。しかもきっと、盗難罪とかのレベルじゃなくて、不法侵入を含む犯罪だ。思わず怒鳴りつけてしまった。
「犯罪じゃねぇか!」
「犯罪じゃないだろ。契約破棄でも従属放棄でもないんだから」
熱くなった俺を冷やすように、冷静に訂正してきた。どうやらこの世界でも犯罪とは、その二つの事だけを指すようだ。住居侵入が犯罪じゃないなんて、俺の感覚では無法地帯に近い。いや、そんなことを犯罪する奴の方が少ないのか?でもこいつがすぐそれを口にしたということは、やっぱり考えとしては珍しいものではないはずだ。それとも、本当にせっぱつまっているから、出てきた発想なのか?だとしたら、なんと理性と言うか、道徳観の浸透した世界なんだか。
そんなふうにいろいろ考えていると、鷲尾が俺をのぞきこんできた。
作品名:その穴の奥、鏡の向こうに・穴編 作家名:神田 諷