仏葬花
行ってしまう。現実を、見てしまう。
シヨウも追いかける。思った以上に下りにくい斜面と、変に高鳴っている自分の鼓動が邪魔で足が上手く動かない。
ジイドは女性の傍らに跪く。二人は見知らぬノス・フォールンに首を傾げているようだ。近づくのが躊躇われて、彼の背中を見ていることしか出来ない。
「ああ・・・。やっと見ないで済むね。お疲れさま」
首にも手の甲にも皺が寄っていた。若い人間を無理矢理老化させた顔、末期の症状の一つだ。この女性は三十代前半だろう。まともに脳や体が動いているのは三十歳くらいといわれている。そして程度や速さは違えど、シヨウも自分がその領域に入っていることにここ数年で気が付いている。死への準備だろうか。劇的ではなくゆっくりとしていることに、余計に思い知らされる。
ジイドはどうだろう。
「これはですね、ノスの慣用句みたいなものなんです」
シヨウはあれ以上近づけず、無言のまま立ち去った。
さっきより速く登った。斜面の上に出る。民家が数件あるが知らない場所だった。道が右と左に伸びている。右はカーブしており先が見えない。左は広く見渡せるがその範囲には何もない。
左の道を進んだ。影を落とすほどもう明るくない。まだ耳鳴りがする。打たれたこめかみを押さえた。
誰もいない。皆、暗くなる前に家に帰るのだ。街灯はただの飾り。
道の脇で止まる。膝に両手を置いて上半身を支える。
「どれだけ取られたか、聞いたら歩けなくなりそう・・・」
「400だ」
「嘘」
「その程度で体調を崩すのは健康管理が行き届いていない証拠だ。現に昨日の夜から何も・・・」
「うん、わかった。わかったから・・・」
背後からの声で一層体調が悪くなる幻想。病は気から、という格言がこういう場面だけに本当だと思ってしまう。気持ちだけで病は治せないと思っているのに。
「なぜだ? 倒れないのか?」
レヴィネクスが問う。
「倒れたら帰れなくなるでしょう」
「あのノス・フォールンに助けてもらえばいい」
道に沿って光が並んでいた。シヨウは驚く。街灯に火がついていた。
そこに向かうと女の魔女がいた。ランプを持って、街灯に火を点けている。ランプの燃料は赤い液体。あちらも気付く。微笑んで角を曲がり行ってしまった。
ロエである。シヨウは初めて見た。
「すごい・・・あれが本物の魔女」
灯りがあったおかげでそこは魔女が集中して住んでいる区域だとわかった。安心したのでバナナを取り出す。あっという間に食べてしまった。水も欲しい。
ノス・フォールンの女性を思い出す。どうしようもない。誰にも止められない。生き物なんて、産まれたら、あとは死ぬだけ。それがこの星の絶対の法則。二度と戻らない命、そこに生まれる意思。でも残るのは人の記憶の中にだけ。
それも、時間とともに擦り切れ、改竄し、捏造される。
救いという終着点、忘れるにはシヨウはまだ若い。
支社に戻ったはいいが、そこは食べ物を作る設備はあっても食べ物がなかった。何の成果もない報告を終え、空腹で眠れないかと思われたが、すぐに意識はなくなったようだ。意識を失う瞬間はいつもわからない。そして、目が覚めるという不思議。
早朝だが幸いにも、開店しているパン屋を見つけた。皆、寝るのが早いので起きるのも早い。肉が挟まっているパン、野菜が挟まっているパンを買った。テーブルのあるベンチに座り、広げていた。住宅地の真ん中にひっそりとある公園と言うには狭い土地。ずっと昔に作られた鉄棒が敷地の隅で錆びている。
足音が聞こえる。振り向いたら後悔した。
「おはよう」朝焼けを背景にジイドが微笑んでいた。「ここ、いい?」
目の前のベンチを指して言った。シヨウが返事をしないので動かない。動かない。
根負けしたのはまたもやシヨウ。ジイドは座った。そして見ている。テーブルの上のパンを。
「私はね、相手が食べていなくても全然気にならないの」
「うん。俺も相手だけが食べてる状況はちっとも気にならない派」
微笑は崩れない。そして居直して言うのだ。
「昨日は何か大変だったみたいだね〜」
どこからどう聞き及んだのか、彼は知った風だった。
「いくらなんでもロエと間違うなんて・・・。あの男の感覚は相当おかしい、としか結論が出ない」
「シヨウを魔女だと思うなんて?」
「父方がそちら方面だったのは聞いたことがある」
魔女の血を引く者が父親だけだと、生まれた子は何の力も持たない場合が多い。
「というか、ジード? 魔女の血を拝借しようと考える人間に関わるな。頭蓋骨開かれて脳みそ・・・」
「嘘、全然気が付かなかった。まさか七十歳のおばあちゃんというオチが」
「それはない。人類皆きょうだい、誰でもノス・フォールンの遺伝子を持っているでしょう。もちろん私も」
長寿の種族という安易な発想である。
「うん、まあ、そうなんだけど・・・へええうわあ」
感心ではなく、関心の感嘆だ。
「あ、知ってる? 魔女同士でもノス・フォールンは産まれるんだよ。ここで面白い話をしよう。あるところに純潔の魔女の一族の男女がいました。そして二人に子供が産まれました。その子供は、ノス・フォールンでした。終わり」
「・・・」
「・・・」
ジイドはいつもの顔だ。
「それで? 続きは?」
「続き? ご先祖様がそう名乗ってただけなのか、本当のところはわからないけど、とにかく二人は自分達が純潔でないことがわかっちゃってわああああとなり姿をくらましました。・・・これで本当に終わり」
「・・・で? それが?」
「どう、とっても面白かったでしょ」
「あんまり・・・」
シヨウの反応を受けて大袈裟すぎる動作で肩を落とす。
「ほら、小さい頃って自分ちの話になるときがあるよね。家族とか習慣の話になって、他の家と違ったりしてお前んち変、て。そういうとき話したことがあるんだけど、やっぱりおかしいって言われて。それっきりもうしなくなったんだけど、この歳になったら面白味も出るかなって思ったんだけど」
また肩を落とす。
「つまり、ご両親はどこかで生きているの?」
それには肩を竦めるだけだった。
この問いかけは失敗だったと頭脳がまごついていたが、ジイドは気が付かないのか続けた。
「ところで、シヨウはこのあとは、なんか用事あったりする?」
「ないよ」
強いて言うなら仕事、と続けようとした。
「俺は、課題の提出期限がもうすぐ・・・」
「はあ? 何よ、それ」
「だから、学校の」
「ちょっと、帰りなさい。今すぐ。速く、とっとと行きなさい。何をしているの。食べていいから帰りなさい」
立ち上がり、ジイドの前頭葉に掌を落とす。
「ええ? いや、そんな切迫してるわけじゃ・・・」
「切迫していないけれど作業はしていないじゃない。何、余裕こいてるの」
「必要な資料を探しに・・・」
「見付かったの? 手伝うから、見付けたらさっさと戻る!」
そう言ったがジイドは座ったままだ。
「何を笑っているの」
「いやあ・・・だって」顔を背ける。「なんでもない。でもこれから仕事なら無理しなくていいよ」