黒兎を追いかけて
一旦騒ぎが止んだかと思うと、標的が僕に変わっただけであった。
「いやいや! ズルいとかそういうんじゃないってばー――」、
「橘、先輩」
下方から桜木さんが僕を見上げていた。…タチバナセンパイ?
「橘、先輩は、どこ?」
クラス全員がクエスチョンマークだった。
「私は、橘先輩が、好き」
「―――へ?」
間抜けた反応は僕だ。文脈のぶっ飛び度に僕を含めみんな付いて来られない。橘、なんて名前の先輩がどうしてここで出でくるのだろう? しかも好きって。好きって――?
「そう、なん、だ…」
急に何を言い出すのやら、無機質な外見に違わず空気は読まない女の子なのだなと思った。そこで、野次馬のように集まっていた女の子たちの何人かが輪から離れていくのが目の端に見えたので、ちょっと焦った。きっと、彼女たちにとっての「桜木涙」ではなく、興を削がれたらしかった。また、2限は確か体育だった。この、よくわからない桜木さんのペースにゆっくり合わせるには時間が足りないと判断した賢明な野次馬も、体操着を取りに行った。
「はい君たちも。次体育だからね」
「ちぇーっ」「ぶーぶー」
何とでも。止めとばかりに最後の野次馬も追い払うことに成功した。
「もう……ごめんね、桜木さん。あ、あと橘先輩、は知らないなぁ」
「ルイ」
「じゃあ…涙、さん。体操着はある? 女子更衣室が階段を下りて右の突き当りにあるから、そこで着替えを済ませてね。女の子たちが教えてくれると思うよ」
桜木さんが机の横から体操着を手にしてコクリとうなずいたのを見て、僕も授業に遅れないように女子とは反対の方向にある男子更衣室に向かった。
最後に着替え終えて男子更衣室のドアに鍵をかけた。男子の部屋に鍵をかけなくてもいいんじゃないかと先生に一度進言したことがあったが、「男の子もキケンがいっぱいなのよー。ここだけの話――この間同じ子のパンツが3回も盗難に遭う! ってことがあったみたいだから…」と聞いて、何故かひどく戦慄した。世の中には変わった趣味をお持ちの方がいるものだ、と思った。急いで踵を返すと、何やら柔らかいものとぶつかってしまった。
「ごめん桜木さん…! あれ、着替えは?」
「…ルイ」
名前呼びにこだわるタイプのようだ。さっき名前で呼んだ時、実はドキドキした。異性に名前で呼ばれるのって、この年になるといつもこうなのかな。桜木さ…涙さんはそういうのないのかな。
僕の身体に跳ね返されて尻餅を付いた涙さんをそっと立ち上がらせる。まだブレザーの制服姿でいたので、ちょっと見えてしまったのがとても恥ずかしかった。顔が赤くなっていないだろうか…。
「どうしたの、涙さん。何かあった? 女子の部屋は反対の、ほら、一番向こう側…」
涙さんは首を振った。
「もしかして鍵がもう閉まってた、とか」
それも違うらしい。綺麗な黒髪が揺れた。
他に理由が思いつかなくて悩んでいると、
「お着替えプリーズ…」
信じられない要求に顔が熱くなるのを感じた。
僕のキャパシティーを超えた瞬間だった。