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Twinkle Tremble Tinseltown 6

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 腕を掴む手に力が篭る。ここになって、ユルゲンはしがみつく人物を見下ろした。まず目に入ったのは、緩くウェーブの掛かった柔らかそうな髪の毛。そして視線を感じ、すぐさま見上げてくる瞳。思わず息を呑む。夜の闇など簡単に弾き返す鮮やかさ。ここまで透き通るようなヘブンリー・ブルーを、彼は生まれてこの方一度として見たことがなかった。
「せめて年齢だけでも」
「だめ」
 再び男と向き直り少女は言った。先ほどと比べて幾分覇気が弱まっている。
「警察に通報する気でしょ」
「ということは、やっぱり未成年か」
「違うよ、お願いだからほっといて」
「彼女は嫌がってる」
 庇うようにして身を乗り出し、ユルゲンは男に言い放っていた。
「やめてやれ」
「怪しいものじゃない。『ティンゼル・カウンセル』の記者をやってる」
「記者にだけは絶対話しちゃだめだってナイジェルさんが」
「奴のところに住んでるんだろ」
 ただでも血を舐めたかのように赤い唇が、噛み締められることでその色身を余計に濃くする。大きな瞳も潤み、今にも泣き出しそうに顔を歪めている。確かに彼女は、ほんの小娘だった。青いポンチョを身に纏い肩を震わせる姿は、こんな場末の酒場よりもハイスクールの校庭の方が遥かに似合っている。大人と口喧嘩して言い負かすことも出来ず、悔しさの余り目に涙を滲ませる。それなのに二の腕へ擦り寄る肉体は成熟していて、布越しにでもはっきりと感じることが出来るのだ。不均衡に混乱は深まるばかりで、ましてや話についていくことなど到底出来なかった。
「何があったかは知らないが」
 それでもユルゲンは生まれて初めて降り立った騎士道精神に突き動かされ、彼女の姿を出来る限り自らの背中で隠そうとする。自分でも行動の訳が分からなかった。分かるのは義務感だけだったが、それは目的であり理由ではなかった。そう理解する程度には、彼の頭も錯綜し、同時に冷徹さを失っていなかった。
「この人がしつこく追いかけてくる!」
 水平に戻りつつある天秤を無理やり引き下げるよう強く腕を引き、少女が悲鳴を上げた。
「嫌だって言ってるのに。しかもいやらしいことしようとする!」
「おいおい、ちょっと待ってくれよ」
 今になってやっと、男も声に焦りを付け足す。
「指一本触れてない。ルートビアを奢ろうとしただけで」
「いらないって言ってるのに。しかも無理やりカウンターへ連れて行こうとしたじゃない!」
「嫌なら強制はしない」
「とにかく、本人は嫌がってるんだろう」
 腕は血流が止まりそうなはずなのに、その分皮膚が敏感になって、彼女の掌の柔らかさをはっきりと感じることが出来る。募ったじれったさが唇を擽るに任せ、ユルゲンは溜息をついた。自分でも驚くほど冷静に。
「それなら、あんたは引くべきじゃないか」
 後は無言で睨みつけるだけの数秒間。それが永遠のように感じる。扉の向こうは気のせいか騒々しさも少しだけ収まり、ただ光だけを時おり地面に淡く投げ掛けていや。コンクリートの建物に挟まれ、風は冷たさを増す。だがユルゲンは、先ほど転んで以来一瞬たりとも震えたりしていなかった。腕に食い込んでいた指先が、ほんの少し緩む。少女の息遣いが小さくなり、遂には闇と熱へ溶け込んでしまうのを火照った耳が感受する。沈黙は確かに空気を思い切り引き絞る。だがそれは、けして怯えを誘発するものではない。

 結局男は、肩を竦めて踵を返した。
「ま、それじゃあ近いうちに」
「絶対にいや!」
 爪先立って叫ぶ少女の言葉は当然聞こえないふり。酒場には戻らず、そのまま通りを上っていく。存在そのものが消えるわけではないが、黒っぽいジャケットはすぐさま夜に紛れ見えなくなってしまった。


 無言の佇みを先に破ったのは少女だった。くっつけていた身体を慌てて離し、跳ねるような動きで二歩後ろに下がる。
「ごめん、巻き込んじゃって」
「いや」
 まだ興奮の名残を残した喉は、冷えた空気を吸い込むと簡単に掠れた。
「災難だったな。たちの悪そうな男だ」
「本当に。会ったのは初めてだけど、二度と顔も見たくない」
 膝まである上っ張りの裾を引っ張ってみせる。この寒さにもかかわらず肉付きの良い脚を晒し、鳥肌の浮かぶ膝を擦り合わせる。凍えて明度を増した夜の空気の中、彼女の恐ろしく白い肌はくっきりと浮かび上がり、そして震えていた。
「今日は嫌なことばっかり。あんなところに自転車があるなんて」
 竦めていた首を一瞬だけ伸ばし、背後を示す。
「運が悪い日ってあるんだね」
 唇を尖らせる仕草を気まずさと相殺しなければならないのが残念だと、腹の底からユルゲンは思った。
「怪我しなかったか」
「大丈夫。いや、ちょっと擦りむいたかな」
 掲げた白いブラウスの肘に、ぽつんと血が滲んでいる。言葉に深刻さが一切含まれていないのが、唯一の救いだった。
「平気。明日には忘れてるくらい」
 つんとあどけない団子鼻。真っ赤だけれど決して腫れぼったくない唇。そして、相手と視線を合わせることに躊躇しない大きな青い瞳。これで睫毛にマスカラでも塗りたくっていたら、本当に子供だと思い込んでいただろう。だが彼女は恐らく、自らを知っている。化粧で誤魔化さなくても世間へ出すのに耐えうることを、ちゃんと心得ている。

 一つの輪となっているのは事実なのに、あまりにもちぐはぐで上手く回らない。それを分かっているのに、何故か気になる。もっと知りたいと思う。

「家まで送ろう。あの男が待ち伏せてるかもしれない」
「あ、大丈夫。ステットンマイヤー通りだから、すぐそこ」
 すばやい切り返しはあらかじめ用意されていたかのよう。嫌悪を含まない拒絶という高度な技巧は、踵でくるりと回ってみせる動きと見事に反比例する。
「たぶん、いや絶対、つけてこないよ。それは確実」
「本当に?」
 無駄とは思いつつ訊ねると、振り返り様こちらの顔を仰ぎ見て、にっこり笑う。幼げな顔立ちがそのようなものを作るとは予想すらできなかった。母親でも近頃は浮かべることが難しい、落ち着いて柔和な微笑。どきりとしたのは驚きのせいに違いない。心の隅に引っかかった違和感に同調した理性が、無理やりそう思い込もうとする。
「ありがと」
 下らない欺瞞は感情を足踏みさせる。だから声を掛けるのが遅れてしまった。ユルゲンが再び口を開いたのは、小さな後姿が細い路地へ消えてしまいそうになる寸前。自分でもみっともないとはっきり分かるほど慌てた声を、青いフードに走らせる。
「ユルゲンだ。ユルゲン・ムーア」
 今度は軽く首を傾けるだけだったが、彼女の唇はやはり先ほどと同じ笑みを刻んでいるように思えた。
「ミア・マクベイン。あの記者には言っちゃだめ」
 「だめ」(Don’t)の部分はひどくハスキーで、濡れたアスファルトの上を滑りながらこちらに届けられた。
 先ほどの男と違い、即物的な石造りの建物に阻まれて消えていった後姿を、ユルゲンの瞳はしばらく探し続けた。見えないことなど頭では分かりきっているのに、足音すら見失ったと耳が納得するまでには、かなりの時間を要した。鼓膜が振動を止めた合間を縫って、情けなさと戸惑いが同時にやってくる。コートの襟首から垂直に侵入する冷気と共に。