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Twinkle Tremble Tinseltown 6

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 写真の中の少女は黒髪。灰色の瞳。細い二の腕をノーズリーブのシャツから覗かせ、弾けるように笑っていた。
 かちかちと音を立て、記憶が繋がっていく。どれも歯がゆいほど不鮮明だった。必死で縋りつけばつくほど、良いことばかり手の中で砂のように崩れていく感覚が、未だ怖くて仕方がない。
 無言で見つめていると、ダリルは少し苛立って手首を動かした。
「ガルプスが脊髄を撃ち抜かれて寝たきりになって以来の足取りが分からない。何か心当たりはないか。知り合いや親しくしていたような相手」
「店にいたのは覚えてる」
 写真ほど柔らかな印象を持ちはしなかった。薬のせいで痩せていたのだろうと思い込んでいたが、元からこんなにも華奢な少女だったのだ。棚から紙袋を取り出すときの幽霊的動き、覗く薄い腋毛。
「腋臭」
「ええ?」
「いや……親しい人間というか、喋りかけられたらちゃんと会話していた」
「らしいな。言い寄る男も何人かいたって」
 引っ込められた写真に代わって、探偵の手に乗っていたのはサム・スペードが持っていそうな手帳ではなく、なかなかに大判のシステムダイアリー。魔法のような登場の仕方に眼を瞬かせている間に、紙面へ走っていた視線がすばやく持ち上がった。少しだけ険を帯びている。
「名前は知ってる?」
「何人かは。黒人のサミー……」
「マディソン?」
「ああ、多分」
「ガルプスと同じ時に巻き込まれて死んだよ」
「こいつの証言で芋づる式に逮捕されたからな」
 影と同化していた看守が、抑揚の薄い声で言い添える。完全に無視し、ダリルは手帳をこつこつとペン先で叩いた。彼が手にしているものと色違いボールペンを、近所のスーパーで配っているらしい。病棟の受付に差してあったのを見かけたことがある。
「他には?」
「特に……」
「彼女にちょっかいかけてた奴じゃなくてもいい。店に来ていた奴の特徴を、出来る限り教えてくれたらありがたいんだが」
 いくらしつこく重ね塗りされた窓のペンキでも、ここまで直射日光に晒されてはたまらない。本来は日当たりの良い場所へ位置するお陰で、冷暖房もなく染み入るような寒さを孕んだこの部屋の空気も形だけは和らいでいた。細く差し込む白い光が、探偵の横顔を厳しく浮かび上がらせる。眼差しは真剣そのものだった。更には彼の放つ最低限とはいえ節度を守った口調が唇の動きと一致しているとなれば、もういけない。今の待遇が適正かどうかは分からなかった。だが、まともな会話など望めないこの施設で久しぶりに掛けられた言葉は、緊張と茫洋を一息で溶かしてしまう。不相応しくないと思えば思うほど、自尊心がしくしくと痛んだ。
「ええ、ああ……」
 探れば探るほど紛れ込んでいく記憶。言葉は苦手だった。何年大学で学んでも、それは変わらない。何も言わない時の方が意味は相手に伝わった。耳を傾けてくれる相手がいることの幸せを、昔は知らなかった。
 今はただ、荘厳な表情で見下ろす青年の顔を見上げ、忘れてしまった台詞を探すしかない。そもそも本当に、持っていたのだろうか。
「協力したいんだ」
 懸命に搾り出した一言に、探偵は頷いた。
「分かってる」
 開いた手帳を目線の位置にまで掲げ、それ以上の自律的な努力をやんわり阻害する。
「今から名前と特徴を言っていくから、知ってるものがあったら教えてくれないか」
 訴えを聞き入れられなかった事実は、当たり前なのだと理解していても辛い。そろそろ布と腕の間を這い始めた虫に震える。相手の動きなど一切お構いなしで、声は訥々と手帳の文字を読み上げていった。
「ブルース・アンダーウッド、白人で20代後半、赤毛の男。バーナード・ハドソン、白人、イタリア系で30代。右肩に女の絵の入れ墨」
 つむりの上を回り続ける言葉へ集中しようとする。だが傾いた体が平常へ戻ることはない。虫たちは腕を伝って脳へ。頭をこじ開けたくなる痒さが痺れに変わっていく。単色の床といわず壁といわず、ひらひらと飛び回るただ白いだけの光を眼と意識が追いかける。身体は動かないのに、涙だけなら幾らでも流すことができそうだった。



 共犯者には嘘をつきたくなかったが、一度だけ自発的に騙したことがある。
 アネッサはよくできた女で、鼻についた白い粉を見かけると黙って指差し、いとも気楽に笑うことが出来た。ハシシに至っては、研究所で仲良く燻らせたことも数え切れないほど。
 刹那の出来事だった向日葵の大群を胸に収めたまま、彼女はゆっくりとした動作で正面へ向き直った。瞳はまだ感動でぼやけていて、けれどその芯は車窓の黄色を取り込んだかのように強く燃えている。
「彼女には言いたくない。独り占めにしておきたいの、あんなにも美しい景色」
 言外に含まれた約束に安堵の溜息を漏らせば、悲しそうに笑う。
「そんなに嫌ならさっさと結婚すればいいのに。そうすれば私たち、ただの研究員と助手に戻るわ」
 意地悪は茶目っ気の裏返し。長く伸ばした睫毛に影が濃く乗っている。いくら瞬いて振り落としても、車窓から差し込むくっきりとした光は次々と代わりを降り積もらせた。左半分を日差しへ差し出したまま、女は定型と化した返事を待ち構えていた。これは冗句に過ぎない。しかし何と皮肉なことだろう。彼女は自覚せず、かといって傷ついてすらいないのだ。今まで心地よいと思っていた関係が、少しずつ変形していく。彼女は悪くない。変わっていくのは自らであるにも関わらず、無性に腹が立った。
 頬杖の上に乗った美しい面立ちへ、ゆっくりと首を振ってみせる。
「どうでもいいさ。僕は眠い」
 再び背凭れへ身を預け目を閉じてしまったから、彼女がどんな表情を浮かべているのかは分からなかった。追い討ちをかけるように、叩きつける。
「期待するなよ、みっともないぜ」
 態度なんて。
 言葉なんて。
 線路の上で身を揺する列車の固い衝撃が、じかに頭へと響いてくる。最初から、楽しいことだけをする約束だった。綺麗な関係ではないとお互い承知の上だった。
 アネッサはそれっきり、駅へつくまで口を噤んだままだった。向日葵はもう消えて、続くのは野暮ったい農家ばかり。それなのに、彼女が相変わらず頬杖をついたまま窓の外を見遣っているのは、まざまざと想像することが出来た。今でも彼女の姿で一番に思い出すのは、あの何とも思わないふりを貫く、左斜め横に傾いた顔。他の記憶は皆一緒くたになって溶け、今は見る影もない。



 気付けばいなくなっていた気配。びくりと身体が跳ねる。思ったとおり看守は、まだ部屋の鍵を開かないつもりだろう。沈黙が便器の傍で蹲っている。
 何て間抜けな真似をしたんだろうと今更ながら思った。みじめったらしく、あんなにも懇願するような目つきで。協力も何も、最初から持ち合わせてなどいないのだ。
 今はもう全身に広がった穏やかな疼きが、勝手に肩を揺すらせる。動けば痛みを余計に感じると分かっているのに、止めることが出来ない。