其は匂ひの紫
利市に心当たりがないわけではなかった。乃木冬川には、家を出て行った手描き友禅師の息子がいた。
(一)
その店は嵯峨嵐山にあった。と言っても観光地として名の知れた辺りではない。住宅地の一角にあり、気をつけていないと通り過ぎてしまいそうなほど、小ぢんまりとした店構えだった。和装古着と小物を扱っているようだが、営業努力をしているのかどうなのかは実に怪しい。季候の良い四月だと言うのに入り口のガラス戸は閉められ、「営業中」の木札が無ければ休みなのかと疑うほどで、客はおろか店員の姿もなかった。
「すみません。ごめんください」
利市は店に入った。声は空しく響き、不親切な地図と自らの方向音痴気味のせいで、迷いに迷って辿り着いた彼の疲労は増進された。店内には緋毛氈で覆われた縁台があり、利市はとりあえず腰を下ろす。
オークションや古着市に出品された冬川紫風の振袖と訪問着を辿ると、何軒かの店を経ていたことがわかった。この小さな古着屋『文箱』で六軒目。遡るにつれ下がる売り渡し価格からみて、ここが元だと考えられる。誰かがあの三枚をこの店に持ち込んだのだ。
利市は店内を見回した。一応はそれらしく商品が並んでいる。吊り下げられた中にも、棚に並んだ中にも、あの紫色を使った着物は見受けられなかった。利市の目は小物や端切れのコーナーに止まる。
「これは…」
近づいて手に取ったのは御手玉。籐籠に零れるほどに盛られているうちの数個は、見覚えのある色だった。掘り起こして縁台に並べる。一枚の友禅の端切れから作られたと思しきそれの色は、冬川紫に似ていた。
「うちに何か用?」
背後から子供の声がかかった。振り返るとランドセルを背負った少年が、訝しげな目で利市を見ている。入り口が開いたことに気づかないくらい御手玉に見入っていた利市は、少なからず驚く。
「なんや、お客さん?」
少年は縁台に並んだ商品を見て、利市が客だと認識したらしい。目の表情が緩んだ。
「それ一個百円です。おんなし色でええん?」
「あ、いや、これは」
少年の胸には小学校の名札があった。『五年三組 乃木』
――乃木?
『乃』を使う乃木と言う苗字は珍しい。利市は今一度、少年の顔を見た。心なしか、師の面影が見えなくもない。
「君のお父さんは、文人(ふみと)さんて名前?」