京都七景【第三章】
「プチ・ロベールには心から同情している。だから、おれが言いたいのは、そんなことじゃない。おれはむしろ、昨日実家に帰ったおまえに黒々とした憤怒の情を抱く」
「どうして。おれの実家がそんなにうらやましいか」
「そうじゃない、そんなわけがないじゃないか。おまえ本当に分ってないな」
「そうなのか」
「そうなのかだって。なんてやつだ。いったい今日が何の日か分かっているのか」
「ええっ?だって八月十六日だろう」
「八月十六日は何の日だ?」
「お盆の最終日だろ」
「おまえ、ほんとうに常軌を逸しているな」
「じゃあ、成人の日だとでも言うのか」
「そういう常軌の逸し方じゃない。約束を忘れてるって言ってるんだ」
「約束?いったい何のことだ?」
「覚えていないのか」
「ぜんぜん」
「今日は何日だ?」
「八月十六日だろう」
「八月十六日は何の日だ?」
「お盆の最終日だろ」
「それじゃ、会話が無限循環に陥るだろうが」
「そう言われてもなあ」
「じゃあ、八月十六日に京都では何をするんだ」
「そりゃ、大文字焼きだろ」
「何だ、分かってるじゃないか」
「何だ、それが分かっていればよかったのか」
「そうじゃない、これでもまだ思い出せないのか」
「さっぱり」
「ここが、我慢の限界だな。もういい、おれから言う。今日の午後6時に、おまえのマンションに集まって大文字焼きを眺めながら酒を飲む約束だったじゃないか、覚えていないのか」
「ああー、ああー、なるほど、そうか、そのことか。そういえば遥か昔に、堀井から聞いたような気がする」
「な、な、そうだろう。やっと思い出したか」
「でも、誰も真に受けてやしないぜ」
「なんだって。だって、あれほど堀井が熱をこめて言ってたのにか」
「堀井にはよくあることさ。最初は熱心だが、時がたつにつれて意欲が減退していってしまう。だから堀井の話は話半分どころか、4分の1、8分の1ぐらいに聴いてなくちゃ、堀井にその気はなくても後で馬鹿を見るぜ。それに、この天気だろう。台風が二つも迫っていて、わざわざ来るやつがいると思うか。それこそナンセンスだ」
「なにを言いやがる。今まで忘れていたくせに」
「いみじくもその通り。だが、結果として居合わせたんだから、来ないやつらよりはましさ。この代償は大きかったがな」
「言ってることが逆だろう。約束を守ったから来たんじゃなくて、たまたま来たのが約束の日だっただけだろうが。それに、来たからプチロベールがだめになったような口ぶりだが、だめになったのは、お前が窓を開けて帰ったからで、断じておれのせいではないんだからな。まったく、転んでもただじゃ起きない男だよ、おまえは」
「へへへへ、まあ、この話はこのへんでやめるか。おれだって、さすがに責任を感じないほどの冷血漢じゃないからな。だが、いずれにしろ今夜は、中止だろうな」
鋭く、わたしの頭に稲妻が走った。
「おい、いま何時だ?」
神岡は腕時計を見た。
「六時半を回ったところだが」
「おい、ラジオ、ラジオ、ラジオはどこだ?」
「ラジオは持ってない」
「おまえ、ニュースはどうしているんだ?」
「本棚の上をよく見ろよ。テレビがある」
「おまえテレビまで持ってるのか」
「ああ、いらないって言ったんだが、それでもないとつまらないだろうって親がおいていった」
「なんて贅沢なやつだ。白黒だろうな」
「カラーに決まっているだろうが。いまどき白黒は見ない」
「返す返すも贅沢なやつだな」
「いらないって言ったのに親がおいて行ったから仕方がない」
「うー、いらいらするが、もういい。とにかく『京都放送』をつけてくれ」
〈京都放送〉を見ると今市長の話が終わったところらしい。市長が会見を終えて出てゆく後ろ姿が映っている。すぐに画面が切り替わった。今度は天気予報である。気象庁の予報士が手に持った棒で画面を指しながら原稿を読み上げてゆく。わたしは固唾を飲んで、神岡は広辞苑に手を乗せて、見守った。
それによると今まで足踏みをしていた中型の台風十六号は急に速度を速め、中国山地を北北東に抜けて現在日本海を北上中、明日の未明には東北地方に再上陸するとのこと。京都直撃は避けられただけでなく、あと一時間もすれば雨、風ともに弱まるでしょう。また、小型の台風十七号は紀伊半島沖で勢力を弱め、温帯低気圧に変わりました。今後の雨雲の動きにご注意ください、とくに山際では一時的に雨脚の強くなるところがありますので土砂災害には細心の警戒が必要です。これで天気予報を終わります。そう言って、気象予報士は頭を下げた。そこへ、番組も終わりなのだろう、男女のニュースキャスターがやって来て予報士に話しかけた。
「いやあ、上成(「かみなり」と読む)さん、よかったですね。送り火を楽しみにしていた人はハラハラしたでしょうね。先ほどの京都市長の会見にもありましたように、五山送り火は開始を三十分ほど遅らせるものの、予定通り行うとのことです。京都の夏の風物詩、五山送り火、今夜は皆様こころゆくまでお楽しみください。明日から、京都に暑い夏が戻ってまいります。それではまた明日、ごきげんよう、さようなら」
「ほら見ろ、やっぱりやるじゃないか」
「おまえの『ほら見ろ』の意味が、よく分からない」
「まあ、いいさ。とにかくやるんだから集まろうぜ」
「この状況で集まれると思うか」
「いや、状況がここまで改善したんだ、大手を振って呼び出してもいいと思うが」
「堀井と大山が来ると思うか、堀井と大山だぞ」
「だって言い出したのはその二人だろう。それに二人とも二時間もあれば充分来られる距離じゃないか」
「おまえ、いつになく食い下がるな」
「そりゃ、そうさ。家族を振り切ってまで出て来たんだからな。いつもと覚悟が違う」
「でも無理だと思うがな。あの出不精の堀井と大山だぜ」
「ところで、今夜は何人集まることになってるんだ?」
「全部で五人のはずだが」
「おれとおまえに、堀井、大山。一人足りないじゃないか」
「おれだろ、おまえだろ、堀井だろ、大山だろ。そうか、あと一人か、いったい誰だろう?」
わたしたちは顔を見合わせた。しばし沈黙が降りる。
「そうだ、露野だ、露野。あいつ存在感がうすいから、ついうっかり忘れてた」
「でも、約束は誰よりも守るぜ」
「あいつ存在感がうすいくせに、精神力は濃いよな」
「濃い」
「来てるな」
「たぶん来てる」
「よし、じゃあこうしよう。露野が来てたら堀井と大山にも来てもらおう。約束だからな。いいかい」
「ああ、いいよ。でも、露野はどうしてここに来ないんだろう」
「あいつは状況が確実性を増さない限り、行動を起こさないことにしているんだ。読書と思索のじゃまをされたくないからな。たとえ約束は守っても、できれば連絡が来なければいいと思っている。そのくせ、ときどき人恋しくなって、夜中の二時ごろたずねてくるんだから、まったく哲学科の人間の頭はどうなってるんだか」
わたしたちは、エレベーターの前にあるピンク電話から露野の下宿に連絡した。
「はい、露野ですが」
神岡は受話器の送信口を手でふさいで、
『おい、いたよ、いた。しかも、下宿のおばさんしかいつも出ないのに、今日は本人が出たぜ』