Slow Luv Op.3
-6-
再び、ユアン・グリフィスから仕事の依頼が入った。リサイタルの翌日――悦嗣が図らずも早起きをした日の午後で、英介からの電話で、である。
「二十二日のオケ・コンの調律も、エツに頼むからって昨日の電話で言ってきたの、覚えてるか? 寝惚けてたみたいだったから、念のため電話したんだけど」
英介の話にまったく覚えがない。帰りの車中、彼が電話を終えて席に戻って来たことは、記憶に残っていないし、その電話の相手がユアンだったことも、現実では知らなかった。戻って以降は夢の中に続いていたからだ。
夢の中に続いていた――?
それにしては、リアルな夢だったことを思い出す。
英介が二十二日のことを、引き続き喋っていたが、悦嗣は別のことに神経が向いていた。昨晩の新幹線の中のことに。
「エツ?」
反応がない悦嗣に、英介が話すのを止めた。
「俺、何か変なこと、言ってなかったか?」
悦嗣が尋ねる。
「フニャフニャ答えてたよ。起きてるのか寝てるのか、わからないような感じ。なんだ、やっぱり寝惚けてたんだな?」
受話器からの彼の声は、笑い含みだった。
「こんどはまともな曲、弾いてくれって言う話も、OKしたのも覚えてないんだろうな?」
その内容も夢に出てきた。いったい、どこまで現実だったのか、だんだんと『問題発言』に近づいてくる。血の気が引く思いがした。
「覚えてない」
「ふーむ」
英介が意味深に相槌を打った。しかし何も言わない。それは気になるところだが、外れて突っ込まれるのも困るので、そのまま悦嗣は口を噤んだ。たとえ話していなかったとしても、彼は何かを感じ取ってしまうかも知れない。
悦嗣の反応がまた鈍ったことに今度は構わず、英介は話を続けた。
「とにかくユアンにはもう返事したから、二十二日はそのつもりで行ってくれよ。俺は明後日帰るから、ちゃんと通訳は頼んでく。弾くならチャイコかラフマニがいい。得意だろ? 逃げるなよ、エツ」
「エースケ」
「これはユアンのためでもあるんだ。さく也のことで寄り道しないで、ソリストとしての自覚を持たせるためにも」
「おまえはよく周りを見てるな? 高校も大学でも、俺なんかより、よっぽど部長に向いてた」
英介はカラカラと明るく笑った。
「人の欠点を探して論うのが得意なだけだ。人をグイグイ引っ張る力はないよ。人をまとめるような面倒くさい事は性に合わないし」
それに今回の事は彼のマネジャーからも頼まれている、と英介は付け加えた。中原さく也のヴァイオリンに固執するあまり、ユアン・グリフィス本人の音が損なわれるのではないかと、心配しているのだと言う。ショパンを獲ったユアンではあったが、彼のベートーヴェンを知る人間の評価は分かれたらしい。ユアンの申し出を受ける意思がサラサラないさく也のことは、さっさとあきらめてほしいのだ。
「ああ、そうだ。いっそ、さく也を呼ぼう。今、ボストンにいるはずだから」
いい事を考えたとばかりに、英介の声が弾んだ。
「え!?」
「そうしたら通訳もいらないし、エツもやる気出るだろう? 効果倍増だ。連絡してみる。だからデュオって事も考えておいてくれ。それじゃ」
「ちょっと待てよ、エースケ…ッ」
返答などお構いなしに電話は切れ、無情な電子音が悦嗣の耳に残された。
悦嗣は自分の心の一隅が熱くなったことに気づいた。「さく也を呼ぼう」と英介が言った時に受けた感覚――あのヴァイオリンの音を聴ける、合わせられる。彼に会える。
「なんだ、そりゃ」
電子音に向って呟くと、クシャクシャと頭をかいた。
作品名:Slow Luv Op.3 作家名:紙森けい