Slow Luv Op.3
「違う」
それに対して、英介は笑みを作って否定した。
カッと体が熱くなった。
「違わない。おまえの困る顔を見たくなかったからだ。一緒に弾ける誘惑に勝てなかっただけだ。だって、俺は」
「おまえのことが、ずっと好きだったから…」
自分の声で目が覚めた。
悦嗣はうつ伏せになった体勢のまま、目だけで辺りを見回す。窓にかかるカーテン、点いたままの電灯、机代わりのグランド・ピアノにミニ・ソファ。半開きの部屋の入り口。全てに見覚えがある。
体を起こした。まぎれもなく自分の部屋だった。
「夢オチかよ…」
安堵ともとれるため息が吐き出される。
昨夜、遅くに部屋に戻った。ユアン・グリフィスのアンコールの途中で会場を後にした悦嗣と英介は、新幹線に乗って駅弁で空腹を満たした。それから少し話しをしている時に、英介はかかって来た携帯に出るため席を立った。彼が戻ってくる前に悦嗣は眠ってしまい、次に記憶が始まったのは東京駅だった。疲れていた二人は寄り道せず、それぞれの家路に着いた。
「かなり、リアルだったな」
だから英介が電話の為に席を立った以降は、すべて夢ということになる。
時計を見ると午前五時半を過ぎたところだった。ベットから足を下ろすと、自分が何も身につけていないことに気づく。シャワーを浴びて、そのままベット潜り込んで寝入ったらしい。夢を反芻しながら、服を着る。
夢の中の英介の言葉が、はっきりと頭に残っていた。
『エツはいつだって、音楽もピアノも捨てなかった』
『ちゃんと指は覚えてた。弾きたがってた』
「だったら何だってんだ」
そう独りごちると、ベットに座った。半開きのカーテンの隙間から、白々し始めた空が見える。目はすっかり覚め、二度寝をする気も起こらない。久しぶりに走りに…の気分でもなかった。
とりあえず寝覚めのコーヒーを入れた。
視界にグランドピアノが入る。月島芸大のピアノ専攻の合格祝いに、買ってもらったものだ。これを入れる為に、実家の悦嗣の部屋は一階に移され、防音にリフォームされた。その部屋は今、妹の夏希が使っている。
卒業して一人暮らしを始めた時に、音楽とは無関係のメーカーに就職したから、必要の無い物になったにも関わらず、引越しのリストに入れた。最初に借りた部屋はワンルームに毛が生えた広さで、半分近くをピアノに占領された。
英介の言葉通り、音楽から離れられなかった。結局、こうしてピアノを生業にしている。そうして久しく忘れていたピアニストとしての自分――大学卒業を期に封印した子供の頃の夢を、よってたかって思い出させようとする。英介も、立浪教授も、ユアン・グリフィスも、中原さく也も。
「くそっ!」
作品名:Slow Luv Op.3 作家名:紙森けい