城塞都市/翅都
わたしは痛いのが大嫌いだ。何か失敗をしたときのお仕置きでやられる、「アイシャさんの愛の拳骨」だって、いくら「愛」だってゆっても痛いから嫌なのに、お仕置きでもなんでもなくひとから殴られたり蹴られたりなんて、もっとされたくない。「お前を殴ったら俺が生きてるって実感できるから黙って殴られろ」なんていうむちゃくちゃな理屈も、まるで理解なんかできやしない。
でも。
「……叩かれたり、叩いたり、痛いとか痛いと思わせるとか、そういう方法でしか生きてるって、そういうのは感じられないものなんですか」
「ンなわけあるか。言っただろ。そういうのはほんの一部だって」
もしかして、生きてるっていうのはそういうことでしか認識できないような、なにか特別なものだったりするのだろうか。
私が尋ねると、大爺はケっと面白くなさそうに息を吐いた。
「そんな思いをしなくっても、生きてる実感なんざそこらに腐るほど転がってらァ。皆見逃してるだけだよ。気がついてないだけだ……ただ、いろんな人間が居るからな、世の中には。そういう方法でしか生を感じられない奴が居れば、逆に殴られることでしか生きてるってのを実感できないって奴も居るし。ツィファンのコレだって、『生きてる実感』て境地からみりゃ同じことだろう」
大爺の指がまたクッキーの皿に伸びて、今度は白いのをつまむ。
ツィファン姐さんは今は娼妓をしているけれど、お金をためていつかお菓子のお店を出すのが夢なのだと言う。お菓子作りが生きがいだと常々言っている人で、大爺の言葉を聞いたわたしは、ああそうか成る程と、そこで初めてストンと納得をする。
つまり、形と認識が違うだけなのだ。人を殴って喜ぶ人が居るのと同じように、クッキーを死ぬほど嫌っている人がこの世のどこかに居るとして、その人から見ればツィファン姐さんの生き甲斐は、迷惑極まりないものでしかないのだろう。ましてやそれを「食べて!」と押し付けることなんか、もう拷問としか思えないに違いない。
そういうことか、と納得顔でうなずいたわたしを見て、大爺は苦笑いしながら「だからまぁ、せめて認識の違う人間には迷惑かけるなってことだよな」と言った。
「俺は、どうせなら傷ついたり傷つけたりするようなことじゃなく、こういう美味しいものとか楽しいものとか、せめてあんまり痛くない方法で生きてる実感てのを感じたいもんだが……ま、今はそんなに悩むな悩むな。もう少し大人になりゃ、嫌でも日々悩まなきゃいけなくなるんだから。楽は出来るうちにしておくもんだぞ」
子供はとりあえずお勉強をしなさい。
大爺は言って、壁の地図を指差した。帳簿のチェックが終わった後で、大爺はいつもわたしのテストをするのだ。そうして、「さぼってないだろうな」と壁の地図に視線を走らせた大爺が何故かふと思い出したように怪訝な顔をしたのと、裏口のドアの開閉を知らせるドアチャイムが再び大きな音を立てたのとが、ほぼ同時だった。
「うーっす、今帰ったぞーって、ありゃ、大爺。いらしてたんですかい」
「んぁ、今さっきな。それよりなんだ、シャーロットが変態に殴られたって?大丈夫だったのかよ」
野太い声がして、裏口からドカドカ狭い廊下を通り、ひょいと酒場に入ってきたウォン大哥は、大哥の声に慌てて椅子から立ち上がったわたしと、テーブルに片肘ついてお茶を飲んでいる大爺に気がつくと、雨にぬれた紫色のペイズリー柄と言う派手なシャツの裾を絞りながら、強面を愛想良くゆがめた。
ボリボリとクッキーを齧りながら大爺が聞けば、困ったように後ろ頭をかきながらどっと疲れた息を吐く。
「へぇ。まぁ、前歯何本か持ってかれやしたが、それ以外は顔に痣がついただけで済みやしたから。とりあえず今日のところは医者に預けて来やしたが、傷が治って差し歯を入れやしたら仕事にも復帰できますし、本人も「たまにはこんなこともあるわ」ってな具合でケロっとしたもんでさぁ。あ、ちなみに無体をやらかした阿呆には、きちんと目に物を見せてやってから丁重にお帰りを願いやしたので、ご安心を」
「おう、ご苦労だったな。つーかなんか最近増えたなぁ、厄介なのが。時代ってやつかねぇ」
「女子を犬か猫みてーにしか思わねぇ、ふてぇ輩が増えてきたってぇのは俺も思ってたところでやす。サド専宿も最近じゃ行き過ぎるヤツが増えたってんで、花代を軒並み値上げしたとか聞きやすし……多分その所為で変態野郎が、氏素性かくしてこっちに流れてきやがるんじゃないですかねぇ」
「個人の性癖にまでごちゃごちゃ言いたくねーけどナァ。しっかし、こうなってくると専門宿街のブラックリストも月イチ更新じゃ追いつかねーぞ。自己防衛にも限りがあっから……ああ、レベッカ」
「ぼーっとしてねぇで、茶でも淹れ換えて来な」と、ウォン大哥に背中を押されて台所に行きかけたわたしを、大爺が呼び止めた。
わたしはきょとりと振り返る。
「はい?」
「そういやな。前から言おうと思ってたんだけど、これ、「死都」の字な。違うぞ」
瞬きをしたわたしの前で、大爺は懐から手帳と、それから太めのサインペンを取り出した。
死都は、大爺が教えてくれる前にわたしが自分で書き込んだ。たったひとつ、わたしが知っていたこの街の名前だ。
「昔は、こんな不吉な字で書いたんじゃなかったんだけどね」と。
昔、おかあさんが同じことをおなじように言ってくれたことを、思い出した。
「この街の名前。ほんとは「死の都」じゃなくてこう書くんだよ」
大爺は手帳の一面を使って、大きくそこに何か文字を書き、その手帳をホラ、とわたしの鼻先に掲げた。
ぱちくりと目を見開いて見つめるその手帳には、大きく「翅」の一文字が書かれていた。
「そうだったんですか?」
「まぁ、今じゃ知ってるヤツの方が少ねぇけどな」
『死』の方が通りも良い、と大爺は笑った。
死に行く都なんてぴったりじゃないか、とおどける大爺の手から手帳を受け取って、わたしは大爺の威勢のいい、右上がりのクセのついた文字を眺める。
「これ、どういう意味なんですか?」
「ハネ。ツバサ。空を飛ぶもの。『はるかの沖より、目馴ぬ翅の飛来たりて』……まぁ、遥か彼方から誰彼ともなく寄り集まって、そういう風にして「この街」は出来たんだって、そーゆー意味」
街の名前。
その由来をよどみなく答えた大爺を見上げる。
その昔、わたしが生まれるずっと、ずーっと前のこと。
この街はひとつの「塞城」だったのだと、おかあさんが言った。
壊れきった世界に辛うじて残された、荒野にぽつんと聳え立つ鉄鋼作りの塞城。
其処に導かれるようにして、わたしたちはその昔よろよろとあちらこちらから寄り集まった。以来、時に殴りあい、時にちょっぴり助け合ったりしながら、荒れた大地に再び吹けば飛ぶ程度の根を張って、干乾びかけながらもなんとか生き延び続けてる。
今までも、これからも。
この大地がソレを許してくれる限りは、多分、ずっと。
「――……だから、『いろんなひとが居る』んですね」
「そーいうこった」
なるほど、勉強はするべきである。
手帳を返して、わたしは言った。受け取りながら、大爺はニヒヒ、と面白そうに笑った。