自殺の理由
そういう風景を、田舎に生まれ育った自分は知らなかった。
自分は、はるばる都会に出てきた田舎者の蝿なのである。ある書店の売り場へと、人の流れとともに運ばれてきた。
新刊の平積みの上に止まり、たったいま目の前をかすめた腕の行き先を眺めている。
書架から抜き出そうとして、若者の白く巨大な人差し指が伸ばされていた。
本は黄色味を帯びたベージュ色の装丁で、『自殺の理由』との表題があった。
手に取った若者はハードカバーの表紙を返し、目次を見ようとしている。
自分は目をつぶって、人間だったときのことを思い返していた。
『海亀のスープ』と名付けられた有名な問題がある。
古かろうが既出だろうが、わたしには重大である。
この問題文は、こう締めくくる。
──どうして船乗りは自殺をしてしまったのだろうか?
解答はさておくとして、わたしが注目するのは、自殺をした理由を問われて、答を出そうとする解答者の姿勢である。
わたしは問題を出した友人に逆に聞き返した。ふたりとも真面目な青年だった。
──いったいみんなが「ああそれじゃ自殺しても無理ないね」と思えるような、そんな理由がこの世にあるのか。あると思う方がおかしいんじゃないか。
助手席の友人は、面倒くさそうに、あるとしろ、と言ってまた黙り込んだ。
いっぽう文学においては、偉そうに言うが、この態度(納得のできる自殺のように「死」を文脈に置くやり方)は命取りになるのではないだろうか。
あくまでも死は異物であり、厄介者であり、面倒くさくて、とうてい受け入れられないものである。
自殺はそれでも起こる。
理由において80点をもらったから生じたのではない。
合格点などない。
わたしは、なかなか解答にたどり着けなかったが、たとえどんな正解を聞くにしろ、こう言い返してやろうと思っていた。
──そんなことで自殺なんかするかよ。
でもだめだった。
わたしは正解を出してしまった。
ああこれが正解なんだと認識しながら。
それなら船乗りを自殺に追いやったのは、自分かもしれないと思いながら。
……。
いくらかページを繰っていた指の持ち主は、短く嘆息して、本を元の棚にはじき返した。
何かつぶやいていたけれど、蝿の自分には聞き取れなかった。