DAEMON BOY
プロローグ 休日の過ごし方
少年──霧雨剣真は思う。
少なくとも自分の知る限りでは、高校生でこんなことをやっているような奴はいない。ひょっとしたら、自分一人だけかもしれない。本当のところは分からないが、思わずそう思ってしまう。
「ハァ…ハァ…ハァ…」
剣真は肩で息をしながら、自分の前に立っている老人を見上げた。
「どうした剣真?もう終わりか?」
もはや体力の限界の近い剣真に対し、その老人は涼しい顔で突っ立っている。
名古屋の騒がしい街から遠く離れた山の中に、伝統的なかやぶき屋根の一軒家が建っている。周りは木々で囲まれ、すぐそばには山頂の方から流れてきた湧水でできた、小さな川がある。山を下りれば見渡す限り水田が広がっており、都会の喧騒や高層ビルなどは影すらも見えない。
そんな美しい自然と、昔ながらの平和な風景に囲まれた一軒家の広い庭に、一人の少年と老人が向かい合って立っていた。
少年の名は霧雨剣真。15歳の高校一年生である。今は薄いTシャツ一枚に、ジーパンというラフな格好である。身長は170㎝前後で体格はほっそりとしているが、見掛けによらず腕は太く、肩幅や胸板も服の上からでも視認できるほど筋肉がついている。完全に逆三角の上半身は、必要以上に鍛え上げられたことを物語っている。
そんな細マッチョの剣真だが、今は肩で息をしながら前かがみになっている。顔からは滝のように汗が流れ、Tシャツもびしょびしょである。
今は12月の中旬。この身震いしたくなるほどの寒さの中でも、剣真は全く寒さを感じていなかった。
それは他でもない、剣真の前に立つ老人との壮絶な組み手の所為である。
老人の名は相摩劉彩。このかやぶき屋根の家に住んでいる老人で、剣真の武芸の師匠でもある。剣真はこの劉彩の家に住み込み、暇なときは武術の稽古を受けながら名古屋の高校に通っている。
劉彩の顔には余裕の笑みが刻まれ、汗ひとつ掻いていない。傍から見たら、この二人の間に何が起こったのか想像も出来ないだろう。
「クックック、もう終わりか?別にわしは終わっても構わんが」
余裕綽々の劉彩に嫌味のように言われた剣真は、俯いていた顔を上げて劉彩を睨むように見返す。
「まだ終わんねぇよ!」
気合を込めて言い放ち、剣真は低い体勢で走り出した。一気に劉彩との距離を詰め、低い体勢のまま器用に体を旋回させる。そして劉彩の顎めがけて、容赦のない回し蹴りが放たれた。
「おっと、危ない危ない」
劉彩は笑みを浮かべたまま、スッと横に体を逸らしただけで必殺の蹴りをかわした。勢いの乗った攻撃の所為で剣真は体勢を崩し、体が大きく泳いでしまった。劉彩はそれを見逃さず、剣真の腹にお返しの回し蹴りを叩き込んだ。
「うっ!」
体の回転も攻撃自体の威力も、剣真を上回っているのは明らかである。
剣真は短いうめき声を上げ、庭の地面の上を何度も転がった。
「ほっほっほ!まだまだじゃな」
劉彩は声を上げて笑いながら、倒れている剣真の方に歩いてきた。剣真は仰向けで大の字に寝転がったまま、自分を見下ろす劉彩を見返す。
「ハァ~…なんでいつもこうなるんだ?」
ため息交じりに、苦笑いを浮かべる。
「そりゃぁ、まだまだわしの方が強いからじゃよ」
「隙ありだ!」
仰向けの状態から、隙を突いて足元を狙って蹴りを放った。完全に油断していた劉彩は、そのままバランスを崩して倒れるかに見えた。
「おっと」
だが、劉彩は軽々と後ろに跳躍して、攻撃は掠りもしなかった。本当に老人なのかと、疑いたくなるような反射神経と身体能力である。
「フゥ、甘いな。威力はまあまあじゃが、どこを狙っておるかが見え見えじゃ」
劉彩は満足そうに笑いながら剣真に向かって指導すると、背後のかやぶき屋根の家の方に歩いて行った。そして縁側に座り、置いてあったお茶を啜り始めた。
「これで組み手の試合はわしの193勝目じゃな。一体いつになったらわしを超えるんじゃ、剣真?」
「正直、一生超えられる気がしねぇよ」
剣真は立ち上がりながら、呟くようにそう返した。
「ほっほっほ!まだまだ若いモンには負けんぞ!」
劉彩はまたも声を上げて笑うと、満足そうにお茶を啜る。こうして見ていると、とても武術の達人には見えない。
身長は剣真よりも低く、別に体中筋肉まみれというわけでもない。短めに刈り込まれた髪は真っ黒で、白髪も禿げている部分も見当たらない。口元が隠れるぐらい長い髭が生えてはいるものの、歯も一本も抜けずに残っており、見た感じは4、50代ほどに見える。
だが本人曰く、既に70代を過ぎているらしい。正確な年齢は教えてくれないにしても、70代というのは信じられない。
「じいさんに体術習ってから、もう7,8年ぐらいになるけどな。一回も勝てた試しがないぞ。あんたほんとにじいさんか?」
剣真は劉彩の横に座りながら、そんなことを聞く。だが予想通り、この老人はいつものように笑いながら答えた。
「わしはただの老いぼれじゃよ。最近は体の調子も悪くての、お前の世話をするのが大変になって来ておるわい」
劉彩の言葉には、無駄に説得力が込められていた。
そもそもなぜ、高校生とはいえまだ子供の剣真が、全くの他人である劉彩の家に住んでいるのか。
それは剣真に親がいないからである。
剣真は幼いころに父親を事故で、母親を病気で亡くしている。祖父や祖母はおらず、頼れる親戚もいなかった剣真は、亡くなる前の母親の頼みで親しかった劉彩のもとに預けられたのである。それが今から10年ほど前、剣真が5歳にも満たない時の出来事である。
「あのなぁじいさん、俺これでも結構鍛えてる方だぞ?単純に筋力だったら、その辺の大人にも絶対負けない自信がある。それなのに、なんで老いぼれのじいさんが俺よりも強いんだ?」
「はてな、なんの事かさっぱりじゃ。それより、夏目はどこへ行ったんじゃ?朝から姿が見えんのじゃが」
劉彩はあからさまに話題を変えた。剣真の記憶する限り、この老いぼれは都合が悪くなると、途端に惚けて話題を変える。そんな事をしても無駄なのに、いつもそうである。これ以上は追及しても何も話さないのが分かっているので、仕方なく剣真も劉彩の話題に合わせる。
「夏目は学校だよ。いつも土曜日は行ってるだろ」
「なぜ土曜日に学校に行くんじゃ?昔はともかく、今は土曜日も休みなんじゃないのか?」
剣真は、横でお茶をすすりながらそんな事を聞いてくる劉彩を見て、思わず顔をしかめる。
こいつ…わざとボケたフリしてやがるな…
剣真の考えてることなど全く知らない、とでも言うように、劉彩はお茶をすすりながらそっぽを向いている。慣れていることながら、少し腹が立つ。
「あいつは平日だけじゃ物足りないから、土曜日も学校行って勉強してんだよ。いっつも言ってるだろ?」
「ほぉ~、そうかそうか。夏目も偉くなったもんじゃ。それに比べて剣真は…」
気味の悪い薄ら笑いを浮かべながら、劉彩は横に座っている剣真に目配せする。
少年──霧雨剣真は思う。
少なくとも自分の知る限りでは、高校生でこんなことをやっているような奴はいない。ひょっとしたら、自分一人だけかもしれない。本当のところは分からないが、思わずそう思ってしまう。
「ハァ…ハァ…ハァ…」
剣真は肩で息をしながら、自分の前に立っている老人を見上げた。
「どうした剣真?もう終わりか?」
もはや体力の限界の近い剣真に対し、その老人は涼しい顔で突っ立っている。
名古屋の騒がしい街から遠く離れた山の中に、伝統的なかやぶき屋根の一軒家が建っている。周りは木々で囲まれ、すぐそばには山頂の方から流れてきた湧水でできた、小さな川がある。山を下りれば見渡す限り水田が広がっており、都会の喧騒や高層ビルなどは影すらも見えない。
そんな美しい自然と、昔ながらの平和な風景に囲まれた一軒家の広い庭に、一人の少年と老人が向かい合って立っていた。
少年の名は霧雨剣真。15歳の高校一年生である。今は薄いTシャツ一枚に、ジーパンというラフな格好である。身長は170㎝前後で体格はほっそりとしているが、見掛けによらず腕は太く、肩幅や胸板も服の上からでも視認できるほど筋肉がついている。完全に逆三角の上半身は、必要以上に鍛え上げられたことを物語っている。
そんな細マッチョの剣真だが、今は肩で息をしながら前かがみになっている。顔からは滝のように汗が流れ、Tシャツもびしょびしょである。
今は12月の中旬。この身震いしたくなるほどの寒さの中でも、剣真は全く寒さを感じていなかった。
それは他でもない、剣真の前に立つ老人との壮絶な組み手の所為である。
老人の名は相摩劉彩。このかやぶき屋根の家に住んでいる老人で、剣真の武芸の師匠でもある。剣真はこの劉彩の家に住み込み、暇なときは武術の稽古を受けながら名古屋の高校に通っている。
劉彩の顔には余裕の笑みが刻まれ、汗ひとつ掻いていない。傍から見たら、この二人の間に何が起こったのか想像も出来ないだろう。
「クックック、もう終わりか?別にわしは終わっても構わんが」
余裕綽々の劉彩に嫌味のように言われた剣真は、俯いていた顔を上げて劉彩を睨むように見返す。
「まだ終わんねぇよ!」
気合を込めて言い放ち、剣真は低い体勢で走り出した。一気に劉彩との距離を詰め、低い体勢のまま器用に体を旋回させる。そして劉彩の顎めがけて、容赦のない回し蹴りが放たれた。
「おっと、危ない危ない」
劉彩は笑みを浮かべたまま、スッと横に体を逸らしただけで必殺の蹴りをかわした。勢いの乗った攻撃の所為で剣真は体勢を崩し、体が大きく泳いでしまった。劉彩はそれを見逃さず、剣真の腹にお返しの回し蹴りを叩き込んだ。
「うっ!」
体の回転も攻撃自体の威力も、剣真を上回っているのは明らかである。
剣真は短いうめき声を上げ、庭の地面の上を何度も転がった。
「ほっほっほ!まだまだじゃな」
劉彩は声を上げて笑いながら、倒れている剣真の方に歩いてきた。剣真は仰向けで大の字に寝転がったまま、自分を見下ろす劉彩を見返す。
「ハァ~…なんでいつもこうなるんだ?」
ため息交じりに、苦笑いを浮かべる。
「そりゃぁ、まだまだわしの方が強いからじゃよ」
「隙ありだ!」
仰向けの状態から、隙を突いて足元を狙って蹴りを放った。完全に油断していた劉彩は、そのままバランスを崩して倒れるかに見えた。
「おっと」
だが、劉彩は軽々と後ろに跳躍して、攻撃は掠りもしなかった。本当に老人なのかと、疑いたくなるような反射神経と身体能力である。
「フゥ、甘いな。威力はまあまあじゃが、どこを狙っておるかが見え見えじゃ」
劉彩は満足そうに笑いながら剣真に向かって指導すると、背後のかやぶき屋根の家の方に歩いて行った。そして縁側に座り、置いてあったお茶を啜り始めた。
「これで組み手の試合はわしの193勝目じゃな。一体いつになったらわしを超えるんじゃ、剣真?」
「正直、一生超えられる気がしねぇよ」
剣真は立ち上がりながら、呟くようにそう返した。
「ほっほっほ!まだまだ若いモンには負けんぞ!」
劉彩はまたも声を上げて笑うと、満足そうにお茶を啜る。こうして見ていると、とても武術の達人には見えない。
身長は剣真よりも低く、別に体中筋肉まみれというわけでもない。短めに刈り込まれた髪は真っ黒で、白髪も禿げている部分も見当たらない。口元が隠れるぐらい長い髭が生えてはいるものの、歯も一本も抜けずに残っており、見た感じは4、50代ほどに見える。
だが本人曰く、既に70代を過ぎているらしい。正確な年齢は教えてくれないにしても、70代というのは信じられない。
「じいさんに体術習ってから、もう7,8年ぐらいになるけどな。一回も勝てた試しがないぞ。あんたほんとにじいさんか?」
剣真は劉彩の横に座りながら、そんなことを聞く。だが予想通り、この老人はいつものように笑いながら答えた。
「わしはただの老いぼれじゃよ。最近は体の調子も悪くての、お前の世話をするのが大変になって来ておるわい」
劉彩の言葉には、無駄に説得力が込められていた。
そもそもなぜ、高校生とはいえまだ子供の剣真が、全くの他人である劉彩の家に住んでいるのか。
それは剣真に親がいないからである。
剣真は幼いころに父親を事故で、母親を病気で亡くしている。祖父や祖母はおらず、頼れる親戚もいなかった剣真は、亡くなる前の母親の頼みで親しかった劉彩のもとに預けられたのである。それが今から10年ほど前、剣真が5歳にも満たない時の出来事である。
「あのなぁじいさん、俺これでも結構鍛えてる方だぞ?単純に筋力だったら、その辺の大人にも絶対負けない自信がある。それなのに、なんで老いぼれのじいさんが俺よりも強いんだ?」
「はてな、なんの事かさっぱりじゃ。それより、夏目はどこへ行ったんじゃ?朝から姿が見えんのじゃが」
劉彩はあからさまに話題を変えた。剣真の記憶する限り、この老いぼれは都合が悪くなると、途端に惚けて話題を変える。そんな事をしても無駄なのに、いつもそうである。これ以上は追及しても何も話さないのが分かっているので、仕方なく剣真も劉彩の話題に合わせる。
「夏目は学校だよ。いつも土曜日は行ってるだろ」
「なぜ土曜日に学校に行くんじゃ?昔はともかく、今は土曜日も休みなんじゃないのか?」
剣真は、横でお茶をすすりながらそんな事を聞いてくる劉彩を見て、思わず顔をしかめる。
こいつ…わざとボケたフリしてやがるな…
剣真の考えてることなど全く知らない、とでも言うように、劉彩はお茶をすすりながらそっぽを向いている。慣れていることながら、少し腹が立つ。
「あいつは平日だけじゃ物足りないから、土曜日も学校行って勉強してんだよ。いっつも言ってるだろ?」
「ほぉ~、そうかそうか。夏目も偉くなったもんじゃ。それに比べて剣真は…」
気味の悪い薄ら笑いを浮かべながら、劉彩は横に座っている剣真に目配せする。
作品名:DAEMON BOY 作家名:悪楽